Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「超越論的実在論と超越論的観念論」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第2章 Alison "Transcendental Realism and Transcendental Idealism" In Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 20-29).

第2章 超越論的実在論と超越論的観念論

〔超越論的観念論とは、対象概念を対象の表象の条件に相対化するのみならず、そうした条件を、人間の認識の論弁的性状の分析によって特定するものである。〕前章で我々は、超越論的観念論を、その基礎を論弁的認識という条件に置くことによって定義した。そうすることで、それらが現象する通りに諸物を考察すること/それらがそれ自体として思考されることの超越論的な区別と、知識が前者に制限されていることとが正当化された。

本章では超越論的観念論を超越論的実在論との比較によって解釈する。第1節では超越論的実在論をその様々な装いにおいて、第2節ではこの実在論への唯一の代案としての超越論的観念論を、第3節では超越論的観念論のこの解釈への二つの反論を、それぞれ考察する。

1 超越論的実在論の性状

超越論的実在論への明示的で一定程度詳細な言及は、『批判』では二箇所(いずれも弁証論)にしかない。第一は第四誤謬推論(第一版)にある。

私がすべての現象の超越論的観念論と解するのは、それにしたがえば我々がすべての現象をことごとくたんなる表象とみなし、物自体そのものとみなさず、そしてこのことに応じて、空間および時間も我々の直観の感性的形式に過ぎず、物自体そのものとしての諸客観の与えられた規定ないし条件ではないということになるところの教説である。この観念論には超越論的実在論が対立するのであって、この実在論は、時間と空間を何かそれ自体で(我々の感性に依存することなくunabhängig)与えられたものとみなすのである。超越論的実在論者は、したがって、外的な諸現象を(人がそれらの現実性を許容するeinräumt場合には)、我々と我々の感性とに依存せず現存するexistierenところの、したがって純粋悟性概念にしたがって我々の外に存在するでもあろうようなwäre、諸物自体そのものとして表象する。こうした超越論的実在論者は、もともとeigentlich、あとでnachher経験的観念論者の役割を演ずるものであり、彼が感官の諸対象について、{それらが外的な対象であるべきなら、それらは感官なしでもそれ自体そのもので現存しているにちがいない}と、誤って前提してしまったのちに、この観点において、感官のあらゆる我々の諸表象はこれらの諸表象の現実性を確信せしめるには不十分であると認めるのである。(A369)

ここでカントは超越論的実在論は経験的観念論――心は観念ないし表象にしか直接的なアクセスをもちえないという教説――をもたらすと論じている。要点は、超越論的実在論は「外的現象」(空間的対象)を物自体とみなすが、心はそうした対象への直接的なアクセスをもたないがゆえに、そうした対象の現存が疑わしいことを認めざるをえない、ということにある。

第二は「純粋悟性のアンチノミー」にある。そこでカントは、超越論的観念論を次のような教説として定義する:「空間ないし時間において直観されるすべてのもの、それゆえ、我々にとって可能的な経験のすべての対象は、現象、言い換えればたんなる表象以外の何ものでもないのであって、そうした対象は、それが表象される限りでは、拡がりをもったausgedehnte存在者として、あるいは諸変化の系列として、我々の思想の外では、いかなるそれ自体で基礎づけられた現存をももってはいない。」

対して超越論的実在論者は、「我々の感性のこうした変様Modifikationenをそれ自体で自体存在するsubsistierende物にしてしまい、だからたんなる表象を事象自体そのものSachen an sich selbstにしてしまうのである。」(A490-91/B518-19)

これらの引用は、超越論的実在論の定義的特徴が、現象ないし「たんなる表象」を物自体と混同することであることを示している。第一引用は、この非難を「外的知覚」の対象(経験的に広がりをもち、空間的である対象)に限定している。第二引用は、超越論的実在論を、すべての現象(内的感官のであれ外的感官のであれ)をあたかもそれらが物自体であるかのように考える見解としている。外的感官のみならず内的感官もそれが現象する通りに我々に対象を与えるというのは『批判』の主要な信条tenetであるから、後者こそがカントの考え抜かれた見解を表現している。

超越論的実在論を、デカルトニュートンの(おおよそバークリが「唯物論materialism」と呼んだ)科学的実在論に限定することはできない。前批判期に、カントは、現象と物自体の混同は不可避的だったのであって(Fort20: 287; 377)、「批判哲学に至るまでのすべての哲学はその本質において優れていない」(Fort20: 335; 413)とまで断じている。カントによれば批判哲学以外のあらゆる哲学は、現象と物自体を混同しており、[つまり超越論的実在論の変種なのである。]

A 超越論的実在論の諸種

カントによれば経験的観念論は超越論的実在論への暗黙的なコミットメントの結果なのであった。観念論論駁(第一版)がこのことを指摘している。

もし我々が外的対象を物自体とみなすならば、我々がいかにして我々の外なるaußer uns対象の現実性の認識へと至るべきかを把握するbegreifenことは、端的に(schlechthin, absolutely)不可能である,というのも我々はただ我々の内にin uns存在する表象のみを拠りどころとしているからである。〔理解不可能となる理由は〕なぜなら、人はなにしろdoch自分の外では感覚することができず、自分自身の内でのみ感覚できるのであって、だからすべての自己意識が提供するのは、もっぱら我々の様々な規定に他ならないからである。(A378)

ここでカントは、バークリのように、「実在的な」ものを意識の直接的対象と同定することで懐疑論を避けているのではない。カントの狙いは、「我々の外」と「我々の内」という鍵語の意味を明確化することによって明らかになる。これらの語は経験的な意味においても超越論的な意味においても用いられる(A373)。経験的な意味においては、これらは対象が経験される仕方――内的感官の時間的に位置づけられた対象としてか、それとも外的感官の空間的に位置づけられた対象としてか――を区別する。超越論的な意味においては、諸物が認識の感性的条件に従うものとみなされる限りにおいて、諸物は我々の内なるものとして――フェノメノンないし可能的経験の対象として――みられる。また諸物がこれらの条件と独立に「それ自体としてある通りに」思考される限りにおいて、それらは我々の外なるものとみなされる。

この区別に従えば、経験的・懐疑的観念論に帰着するところの超越論的実在論は、たんに経験的な意味で我々の外なる(空間的な)対象を、超越論的な意味で我々の外なるものともみなしていることになる。このことから、超越論的実在論者は、人間の心はそのように考察された対象に対して直接的な認識のアクセスをもっていないと結論する。ここでの誤りは人間の感性の条件との連関と独立に物が現存すると想定することではなく(カントもそのように想定する)、この仕方で現存する物がその時空的属性・関係を保っていると想定することにある。

「あの善良なバークリが物体をたんなる仮象におとしめた」(B70-71)のは、経験的な意味において我々の外なる対象の属性・関係を超越論的な意味においても我々の外なるものの属性・関係とみなす超越論的実在論の誤りをうけてのことだという点で、バークリの経験的観念論は、超越論的実在論の派生物であるといえる。

のみならず、バークリ(そしてヒューム)の立場は、それ自身超越論的実在論であるともいえる。なぜなら、彼らは現象をあたかも物自体であるかのようにみなしていたからである。カントの診断ではそれは、彼らが現象の認識への、感性のア・プリオリな寄与を否定したがゆえである。それだから彼らは、時空的対象(カントの現象)を超越論的な意味において我々の外なるものとみなし、同時にそれらを(カントの見地からすれば誤って)経験的な意味において我々の内なるものとみなしたのである。したがって、彼らはともに[いわばカント的な超越論的実在論入れ子としての]超越論的実在論者である。

B 超越論的実在論と、知識の神中心モデル

あらゆる形態の超越論的実在論は、人間の認識が感性のア・プリオリな条件――これが心が感覚的所与を受容する仕方を構造化する――に依存していることを認めない。第2章のこれまでのこの結論を第1章のそれと結び付ければ、このことは、人間の認識の論弁的性状を見いだせなかったということに等しい。それゆえ、超越論的実在論は論弁性テーゼの拒否と密接に関連している。

この拒否は合理論と経験論双方による概念的表象の格下げに反映している。それらに共通の不満は、その一般性generalityによってそうした表象は高々部分的で抽象的であり、対象を十全な具体性において把握できない、というものである。(例えば合理論者側ではスピノザの第二種/第三種の認識の対比――論弁的認識ないし論証知ratio/直観的認識ないし直観知scientia intuitiva*1――にこのことはよく表現されている。)

続いて超越論的実在論を積極的に特徴づけよう。そのために、この立場を認識の神中心のパラダイムないしモデルにコミットメントの点から定義する。認識は対象が何らかの仕方で心に与えられることを要求する〔論弁性テーゼの第一前提。cf. 第1章〕。これを否定するならば、対象そのものが(それゆえ物自体も)与えられるgivenことを拒否せねばならない。(経験的観念論は、対象は与えられない(推論されるのみ)だと主張して懐疑論を呼び込んだ。) さて、対象そのものを産出しsupplyうる唯一の直観は知性的直観――これが神の・無限の知性を特徴づける――なので、論弁性テーゼを拒否する超越論的実在論は、この考えに、つまり神中心の理論枠paradigmにコミットせねばならない。

注意。ここでの要点は、超越論的実在論が、我々の直観がいやしくも対象を知る限り、それ自体としてある通りに知るのだということを暗黙的に想定しているがゆえに、我々の感性的直観をあたかも知性的であるかのように考えているということである。彼らが直観的知性の現存にコミットしている、などということは問題ではない。

我々は、超越論的実在論の神中心モデルへの訴えを、ライプニッツ、ロック、前批判期のカントにおいてみることにする。

*1:スピノザの挙げている例では、比例式を、項どうしを愚直に乗除して解くのが論証知。一見して操作を経ずに答えを得るのが直観知。(『エチカ』第2部定理40注解1)