Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「論弁性と判断」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第4章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 77-87).

第4章 論弁性と判断

カントの観念論は認識の条件についての観念論として、人間認識の論弁的性状の分析と不可分であった。また、この分析は3つの基盤bedrockにもとづいているのだった。(1)あらゆる認識は対象が与えられることを要求する、(2)我々の直観は感性的である――対象の触発に依存する――、(3)感性的直観は悟性という自発性の共働を要求する。

カントにとって前二者は比較的議論の余地がなく、それゆえ重点は(3)に置かれた。(3)は経験主義的認識論の拒否に相当するconstitute。本章は(3)を扱う。続く2つの章で人間認識の感性的および知性的な条件を分析するが、その序論を意図している。

I. 論弁的認識とその諸要素:概念と直観

『論理学』で、カントは概念(↔直観)を「一般的な表象allgemeine Vorstellung、換言すれば、幾つかの客観mehreren Objektenに共通のものについての表象であって、だからその共通のものがさまざまなもののうちに含まれうる限りでの表象」(JL9: 91)と特徴づけている。『批判』では、「概念は、複数の諸物mehreren Dingenに共通でありうる一つの徴表ein Merkmalを介して、間接的にmittelbar対象に連関する。」(A320/) 概念は、その一般性のゆえに、同じ概念のもとに包摂される他の諸対象にも述定可能なpredicable諸特徴によってのみ、対象に連関しうる。

批判期のカントは人間認識が概念による認識であることも、神中心の基準によって測られればそれが不十全であることinadequacyも否定しない。有限の認識者にとって神中心の基準が規範的であることnormativityを否定し、このことによって論弁的認識がその自律性と規範性を得る。この「パラダイムシフト」の重要な特徴は、概念を規則として再解釈することである。しかし、規則としての概念をカントは二義的に用いている。

[概念。その二義性と一方の重要性。その形成が悟性にもとづくこと]

一方で、概念は、諸個別者particularsを想像上で把捉すること――例えば、前から見た家の側面と背面を推定すること――を導く、感性的総合の規則として役立つ。概念をもつとは、知覚に与えられた感覚的所与を秩序づける図式としての規則をもつことである。

他方で、概念は、概念的な結合を肯定する論弁的な規則として役立つ。こちらの機能が、概念の判断における役割を説明するため、より重要である。物体概念を形成するとは、拡がり、不可入性、形状等々の諸特徴を、或る意味で(後述)その概念に必然的に結び付けられている諸徴表として合わせて思考することである。相関的に、この概念を適用する〔eg 「これは物体である」〕とは、或る現実的ないし可能的な(諸)対象を、これらの徴表による一般的な記述のもとに包摂されるものと考えること〔eg 「これは拡がりをもち、不可入的であり、形をもち……する」〕である。これは判断を形成することに他ならないので、悟性は概念によって、判断以外の使用をなしえない(A69/)。

概念の質料ないし内容と、その形式とが区別される。概念の内容とは、その諸徴表として思考される感性的諸特徴である(これは経験に由来する)。概念の形式とは、その普遍性ないし一般性である(これが論弁的規則としての機能を説明する)。単に感性的印象の集まりをもつのみならず、可能的対象の集まりにそれらを適用するという思考が、概念をもつために必要である。この思考は経験に由来しない。むしろ、「比較」「反省」「抽象」と呼ばれる一連の「論理的働き」によって、すなわち多様な個別者に共有される共通の感性的諸特徴を「分析的統一」へと結合することによって、産出される(JL: 94)。この過程全体は「反省」と、またそれによって産出される概念は「反省された表象」と呼ばれる(JL9: 91)。

概念を形成するこの働きが、当の概念を前提しているのではないかという問題があるがそれは措いて、概念が与えられたりコピーされるものではなく、悟性の働きによって形成されるという点を強調しておきたい。

[直観]

直観をカントは三つの意味で用いている。特殊の表象ないし心的内容、そうした心的内容によって表象される対象、個別者を表象する働き、の三つである。前二者の区別がとりわけ見分けづらい。

ここでは、心的内容としてのそれについて一点指摘したい。直観は、対象に直接的に連関する、個別的な表象である(A320/)。感性的直観は概念化のための生まの与件を提供するにすぎないのに、これではあたかも対象についての規定された認識であるかのようである。だから、規定されたつまり概念化された直観と、規定されていないそれとを区別し、前者のみを個別的表象に相当するものと考えるべきであろう。

II カントの判断理解

カントは判断を、働きとその所産productとの双方を意味して定義している。

判断とは、様々な表象についての意識の統一を表象することdie Vorstellung der Einheit des Bewußtseins verschiedener Vorstellungen、あるいは、様々な表象が一つの概念を形成する限りで、そうした諸表象の関係を表象することである。(JL9: 101)

判断とは一般的には様々な認識の或る関係における統一の表象である。判断は諸概念が一つの認識に、普遍的に客観的に属する仕方の表象である。もし人が二つの表象を、それらが結合して一つの認識を構成するものとして思考するならば、これは判断である。あらゆる判断には、種々の表象が一つの認識に属する限りで、それらの一定の関係が存する。(WL24: 928〔英訳から訳出〕)

a. 判断の働きは、別個の諸表象の一つの概念への統一化unification――これはこれらの表象の意識の統一と相関する――を含む(第一・二パッセージ)。第二パッセージは、さらに、b. この統一化が意識に、普遍的にそれゆえ客観的に関わるpertain toと指摘している。換言すると、客観的妥当性は意識における(普遍的とされる)一定の統一化と相関している。a/bは、『批判』における、一般/超越論的論理学の観点からの判断の分析に対応している。

A 概念と判断:第一の説明〔一般論理学の観点から〕

判断は論弁的認識と等価である。あらゆる判断は概念化を含み、逆も真だからだ。さて、判断は、a. 表象と対象との関係を含む。また、b. 二つの概念を含む。例えば「物体」と「分割可能性」。両者は相互に、また判断の対象――「物体」概念に含まれる一般的記述の下でのxの思考の完全な集まりcomplete set――に関係する。主語概念は直観に直接連関し、対象に間接的にのみ連関する。直観は判断への感性的内容を提供し、概念はそれによってこの内容が思考されるところの論弁的規則を提供する。概念が対象との関係にもたらされるのは、この内容を規定することによってなのである(対象の第一の規定ないし概念化)。

最後に、c. 主語概念によって規定された対象が、述語「分割可能性」によっても思考される(対象の第二の規定ないし概念化)。「すべての判断は我々の諸表象のもとでの統一の働きである」(A69/)とは、すべての判断が諸表象の一つの概念への統一化を含むことと、同時にこれらの表象と対象との関係を含むこととを強調することを意図している。

R4634に「すべての判断は二つの述語をもたなければならない」とある。ここからして、述語は概念を意味する。概念は「可能な判断の述語」であると言うとき、カントは概念の働きを論理的・文法的述語に限定しているのではない。ポイントはむしろ、概念の働きは、判断の対象の内容を規定することにある――これはそのもとでこの内容が思考されうる一般的記述を提供することでなされる――ということである。それゆえ概念は「論理的」述語ではなく「実在的」述語(これは「規定」とも呼ばれる)である。これを踏まえて定言判断のカントの図式をまとめるとこうである。例えば「物体」が、「対象の与えられた認識を構成する」(R4634)。つまり、そのもとで主語xが判断のうちに取り込まれる最初の記述をもたらす。判断は「物体」と「分割可能性」とを相互に「比較」(ibid.)し、それらが同じxに関わるということを断定する。