Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「物自体と触発の問題」(2)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第3章 Alison "Thing in itself and the problem of affection" In Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 57-63).

II ヌーメノンと超越論的対象

ヌーメノンおよび超越論的対象は物自体概念と密接に結びついている。前者をカントは就職論文で最初に取り上げた。そこで、ヌーメノンは、非感性的な、それゆえ純粋に知性的な認識の相関者(↔フェノメノン=感性的認識の対象)として、認識論的タームによって特徴づけられた。

[超越論的対象および物自体とヌーメノンとの関係]

ヌーメノンは現象の条件から離れて現象するものを指示する、と解されて物自体と区別されることがあるが、ヌーメノン(例えば神や理性的魂)はそのような存在者である必要はない。

これらの相関概念である現象とフェノメノンをカントは時に鋭く区別する。現象は「経験的直観の規定されていない対象」(A20/)である。すなわち、概念的規定を欠いた、たんに感性に与えられたものとして考察された対象である。対してフェノメノンはカテゴリーのもとにもたらされた感性的対象、すなわち概念的に規定された現象である。これに鑑みれば、物自体は概念的に規定されていない――というのもそれについての思考は実在的内容を欠いているから――一方、ヌーメノンは知的直観の推定上の対象として「概念的に」規定されている。

にもかかわらずカントは物自体とヌーメノンとを多くの場所で等値しているが、これは就職論文から『批判』に至るカントの立場の変化のためである。『批判』では、ヌーメノンは認識の異なる様式(知性的直観)を、未規定的な仕方であるとはいえ指示することによって「感性の越権を制限する」(A255/)。そして悟性はいかなるカテゴリーによってもヌーメノンを認識できず「未知の何ものか」(A253/)として思考することしかできないということに気づき、おのれを制限するのである。他方就職論文では、「感性の制限」という語句を、非感性的なものについての積極的理論のための概念的余白を供給するために用いていた。彼の目標は、我々の知性的概念を感性的に条件づけられた概念から解放し、叡智界の認識への活路を開くことであった。

さて、「未知の何ものか」が超越論的対象であり、これは就職論文のヌーメノンから区別されねばならない(vgl. A253/)。したがってカントが超越論的対象[・物自体]とヌーメノンを区別する場合、ヌーメノンは就職論文のそれである。他方、次のように等置している場合、正しく解されたそれなのである。

したがって悟性は感性を限定するbegrenzenが、だからといって悟性自身の領野を拡張するerweiternことはない。また悟性は、感性が諸物自体そのものにかかわる(gehen auf)と僭称anmaßeせず、そうではなくてもっぱら諸現象にかかわるよう感性に警告することによって、悟性自身は対象自体そのものを思考しはするが、しかし超越論的客観としてのみ思考するのである,この超越論的客観は現象の原因であり(したがってそれ自身は現象ではないのであり)、量としても、実在性としても、実体等々としても思考されえない(というのも、これらの概念は、これらがそこで一つの対象を規定する感性的形式を常に必要とするからである;)……我々がこの客観を、それについての表象が感性的でないという理由で、ヌーメノンと名づけようとするなら、それは我々の自由である。しかし、我々は我々の悟性概念のいかなるものをもそうした表象に適用しえないから、この表象は我々にとってはあくまで空虚であり、我々の感性的認識の諸限界を表示するbezeichnen以外には、また、我々が可能的経験によっても純粋悟性によっても充たしえない或る空間を残しておく以外には、何の役にも立たない。(A288-89/B344-45)

[超越論的対象と物自体との関係。超越論的対象の、指標、根拠、問題消滅という多種の役割。その根本性格]

超越論的対象と物自体とをも、カントは同定したり(e.g. A366)区別したりしている。[これらは根本的には区別されているものと考えねばならない。]

区別している例。A演繹で彼は「超越論的対象という純粋概念」に「あらゆる我々の経験的概念一般に……対象との連関を、言い換えれば、客観的実在性を」(A109)与える機能を認めている。ここで彼は我々の認識を離れ、かつそれに一致する対象という概念に携わっている(A104)。我々は表象の外に出てそれを超越論的に実在的な存在者と比較することができないので、そうした対象は「或るもの一般=Xとしてのみ思考されねばならない」(A104)。この論脈で、この概念は超越論の指標transcendental pointerとして機能している。そのように解されればこの術語は複数形で用いることができない。「私たちの認識においてつねに同一のものである」(A109)。これは「統覚の統一の相関者」(A250)としてのみ役立つのであって、明らかに物自体と同定されえない。

他方、次節で述べるように、超越論的対象は超越論の指標としてよりもむしろ現象の超越論的根拠(≒物自体)としても役立つ。

また、カントは二様に考察されるのは経験的対象であると述べてもいる(A38/)が、それは超越論的対象であるという方が適切であろう。とすればこれはヌーメノンや物自体にない超越論的対象特有の仕事となる。問題を導入するというA演繹での役割と対照的に、ここでの役割は、問題を消滅させることである:

超越論的対象がいかなる性質をもっているのか、つまり超越論的対象とは何であるのかという問いに対して、人はいかなる答えも与えられないが、この問いのいかなる対象も与えられなかったという理由で、この問い自身が無意味であるという答えは、もちろん与えることができる。(A478/)

なぜ超越論的対象にはこのように別個の機能が割り当てられているのか? まず、超越論的認識の「対象」とは、非経験的な対象などではなく、経験的対象ないしフェノメノンについてのア・プリオリな知識の可能性の条件である(vgl. A56-57/)。だから超越論的対象の話における「超越論的」は、超越論的にすなわち認識の条件に関して考察された経験的対象の話として副詞的に解されねばならない。これは物自体/現象の区別と同様である。

ただし超越論的/経験的の区別の方がより根本的である。これは対象とその認識の条件についての二階の哲学的考察とそれらの一階の研究(経験的科学)との間の区別である。対して物自体/現象の区別は超越論的な観点の内部における考察様式の区別なのである。