アリソン「超越論的実在論と超越論的観念論」(2)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第2章 Alison "Transcendental Realism and Transcendental Idealism" In Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 30-49).
〔我々は、超越論的実在論の神中心モデルへの訴えを、ライプニッツ、ロック、前批判期のカントにおいてみることにする。(ライプニッツとロックは省略する)〕
前批判期のカント
カントは『形而上学的認識の第一原理』(1755)において、同一性の原理が全真理の第一原理だという主張を支持する際にこう書いている。
我々の推理(ratiocinatio, reasoning)はすべて、真理の究極的規則から明らかであるように、それ自身であるいは関係においてみられた主語に対する述語の同一性の発見に帰着する。したがってここから、神は推理を必要としないことが理解できる。というのも、神は一切をきわめて明晰に直観するので、一致するものも一致しないものも同じひとつの表象行為によって〔神の〕知性に対して呈示されるからである。さらに神には分析analysiも必要ではない。分析が必要になるのは、我々の場合には知性を暗ます闇があるからである。(ND1: 391; 10)
カントはここで明らかに、非概念的な・純粋に直観的な認識をその理想型idealとしてもつ、認識の神中心モデルにコミットしている。有限な認識者として、我々は、神的知性がただちに認知するところの主語-述語の同一性を把握するために、分析(それゆえ概念化)に頼らざるを得ない。カントのコミットメントは認識の理想型の定式にのみならず、この著作の中心的議論にもみられる。第一に、物の可能性の根拠(それゆえ物の本質の根拠)としての神の現存在の論証において。カントは、空間を囲む三本の直線の可能性は、神の知性によるその思考可能性*1にもとづいていると論じている(ND1: 395-96; 16-17)は。対して批判期のカントは、数学の可能性の説明において、空間を囲む二本の直線の不可能性は、空間において図形を構成しうる諸条件――これらは人間感性の性状によって規定されている――にもとづいていると論じている。〔可能なものの可能性の条件を神の知性に含まれていることに求める→不可能なものの不可能性の条件を人間感性から逸脱していることに求める〕
第二に、諸実体の共存の原理は神の知性のうちに位置づけられるという主張において(ND1: 413; 41)。彼はそこで経験の統一の根拠を扱っている。『批判』でこの統一は、一定の諸原則(類推)――これは統一された時間秩序を持つ経験の可能性の条件として機能し、現象が悟性の純粋概念の図式に合致することを表現する――によって説明される。それと対照的に、ここで対象(実体)は神の知性の図式に必然的に合致すると考えられている。
2 カントの観念論の超越論的性状
前節で我々は、あらゆる非批判的哲学は超越論的実在論的とみなされえ、そのようなものとして神中心の理論枠へのコミットメント――これは有限知性の目印である論弁性の格下げを伴う――を共有している、ということをみた。本節ではこれが超越論的観念論の解釈にもたらす諸含意をみる。最も重要なものは、超越論的観念論は、人間認識の対象の性状ないし存在論的身分についての形而上学的教説ではなく、メタ哲学的な「視角」として――超越論的実在論もそう定義されたように――特徴づけられるべきであるというものである。
A 形式的観念論としての超越論的観念論と、いわゆる「コペルニクス的転回」:明確化の二つの試み
カントは超越論的観念論をむしろ形式的ないし批判的観念論と呼ばれることを望んでいる(Pro4: 375; 162-63)。この観念論は、そのもとで対象が人間の心によって認識されうる条件の性状と作用域とについての理論という意味で「形式的」である*2。また、意識の内容やそれ自体としての実在の性状ではなく、論弁的認識の条件と限界についての反省に根ざしているがゆえに「批判的」である。
これまで人は、あらゆる我々の認識は対象に従わsich richtenねばならないと想定した。しかし、我々の認識がそれによって拡張されるerweitertような何ものかを、概念を通じてア・プリオリに対象について決定するausmachenすべての試みは、この前提の下では水泡に帰した。人はだから、{我々は形而上学の諸課題において、対象が私たちの認識に従わねばならないと想定することで、よりうまくいかないかどうかを}一度試みてみたらどうか。(BXVI)
ここでカントは超越論的実在論と超越論的観念論という「見地standpoints」を比較している。「あらゆる我々の認識は対象に従わsich richtenねばならない」という想定は超越論的実在論のそれであって、我々の認識が従わねばならないところの「対象」とは物自体である。この見解では、我々は、我々の思考が対象の「実在的」性状に従う程度にまで、つまり対象についての神の思考の程度にまで、対象を知ることができる。このモデルでは我々はア・プリオリ(で総合的*3 )な知識が可能である理由を説明できない。というのも、我々はいかにして心が対象のア・プリオリな属性(the properties of objects so defined)に「参与anticipate」できるかという理由を説明できないからだ。問題はこのモデルが、あらゆる認識は究極的に対象それ自体との直接的な接触(direct acquaintance)に依存していると想定していることにある。
カントによれば、人間認識の対象が物自体であるとすれば、ア・プリオリなのみならずア・ポステリオリな知識の理由を説明することもできない(Pro4; 282; 78)。神中心モデルをもった超越論的実在論は、いかなる種類の論弁的認識をも説明できず、だからこそ哲学的転回が必要なのである。
対して「対象が私たちの認識に従わねばならない」とは、対象は、そのもとでのみ我々が対象を表象しうる諸条件に従わねばならないということであった(第1章)。このことは、認識の条件と認識の人間中心モデルという考えを示唆するが、ここでは後者を扱う。
人間中心モデルの標準的意味は経験主義者たちのそれではない。彼らは認識を神中心の基準から認識を分析した。それゆえ彼らの主要な認識論的関心は、人間の認識がそうした基準に対してとる立ち位置を規定することにあったという点で合理主義者と共通の根をもっていたのである。他方、標準的意味における人間中心モデルとは、人間の心を、それを通じてのみ・そのもとでのみ客観的世界を表象できるような規則ないし条件の源泉として考察することである。つまり、人間悟性(感性によって適当に条件づけられたそれ)が「自然に対する立法」(A126)を提供すると述べることである。我々の悟性は論弁的 *4 (↔直覚的)であるから、これは、論弁的認識が、(神中心モデルのもとでは不可避的にそうであったように)認識の二等形態に格下げされるのではなくて、基準へと上昇することを内含する。
B 超越論的観念論と現象主義[との相違]
超越論的観念論と現象主義一般、とりわけバークリの観念論との対比へと立ち戻りたい。ジョナサン・ベネットは次のように現象主義と観念論を特徴づけている。現象主義とは対象言語の言明(object language statements)についての理論であって、すべてのそうした言明は、感覚与件についての複合的言明(含反事実的条件文)へと翻訳可能である。これは、対象は感覚与件からの論理的構成物である、という主張に等しい。他方、観念論では、対象とは感覚与件の集合である(バークリの見解)。
現象主義における感覚与件は物自体であるから、これは観念論と同様、超越論的観念論を解釈するのにふさわしくない。超越論的観念論は対象言語言明の、精確なあるいは原始的な感覚与件-言語への翻訳可能性についての理論ではないし、存在論的タイプ(物質的対象あるいは感覚与件の集合)についてのそれでもない。論弁的認識のア・プリオリな条件と限界とについての理論なのである。
バークリは、知覚されていない対象xの存在について、二様の分析を与えた。xが存在するのは、第一に、xが神によって知覚される限りでである。第二に、xについての言明が次の形式の文に翻訳可能な場合である:仮に人がその場に居合わせるか、適当な道具をもつ等々するならば、人はxを知覚するであろう(『人知原理論』§3, 6)。(第二は現代現象主義の見解に近い。)
月に住人がいるかもしれないということはかつて誰も住人を知覚しなかったとしても認められねばならないが、
しかしそれは、我々が経験の可能な進行der Fortschrittにあって、月の住人たちと遭遇するかもしれないということと同じ意味のものであるにすぎない;〔経験内で住人に遭遇することは住人がいるということである、という理由は、〕なぜなら、経験的進展das Fortgangの諸法則にしたがって知覚と或る脈絡に置かれる(in einem Kontext stehet)ものはすべて現実的だからである。それゆえ月の住人たちは、彼らが私の可能な意識と或る経験的な脈絡のうちに置かれる場合には、現実的である,だからといって{それ自体で、すなわち経験の進行の外では}現実的ではないにしても、である。……知覚に先立って或る現象を或る現実的な物と名づけるのは、我々が経験の進展にあってそうした知覚に出会うにちがいない(auf…treffen müssen)ということを意味するか、あるいはまったく意味をもたないかのいずれかである。なぜなら、⁅物自体そのものが問題であったならば、⁆現象が、それ自体そのもので、我々の感官および可能的経験との連関なしで現存するということは、たしかに語られえたであろうからである。しかし問題になっているのは(es ist Rede von…)、空間および時間における現象のみであり、両者は物自体そのもののいかなる規定でもなく、我々の感性の規定にすぎない;だから空間および時間において存在するもの(諸現象)はそれ自体では何か或るものEtwasであるのではなく、たんなる諸表象であって、これらの諸表象は、それらが我々のうちに(知覚において)与えられていない場合には、そもそもどこにも見出されない(überall nirgend angetroffen werden)ものなのである。(A493-94/B521-23)
この記述は、知覚されていない存在者ないし出来事についての一階言明をその可能な知覚についての二階言明に翻訳する点で、バークリと現代現象主義とに表面的に類似している。「経験的進展の法則」すなわち「経験を統一する法則」(A494/B522)とは、「経験の類推」(cf. 第9章)に他ならない。つまり、一定の存在者ないし出来事が「経験の進展」のうちで出会われねばならないというのは、当該の存在者ないし出来事と現在の経験との間に或る合法則的結合ないし「因果的経路causal route」を主張することの省略的な仕方なのである。これは、何らかの(人間のであれ神のであれ)意識の経過historyにおける仮言的な心的出来事を仮定することを含まない。
「経験的思考一般の要請」における現実性の分析でカントは述べている:
諸物の現実性を認識するための要請は、知覚を、したがって人がそれを意識するところの感覚を要求する,まさに直接的に、その現存在が認識されるべき対象自身についての知覚を要求するのではないにしても、その対象が経験の諸類推にしたがって何らかの現実的な知覚と脈絡づけられていることZusammenhangを要求するのであって、これらの諸類推は経験一般におけるすべての実在的連結(die reale Vernüpfung)を明示するのである。(A225/B272)
こう読まれるかもしれない。この立場は、経験の対象が現実的であるためには、対象は知覚されねばならないという極端に観念論的要求を拒否していながらも、対象が知覚されうることを要求している、と。カントはたしかに、現実的なものは何であれ可能的知覚の対象でなければならないと考えているが、これは現実性の基準ではなく帰結である。基準は、「経験の類推」すなわち一連のア・プリオリな諸原則によって与えられる。これらの諸原則つまり「現象の経験的結合の諸法則」にしたがう一定の知覚と結びつけられうるものが、「現実的」なのである。
磁気物質を我々は直接的に知覚できないにもかかわらず、鉄粉が引き寄せられるのを知覚することでその現存在を認識する。カントによれば、(反事実的条件文に訴える現象主義を思い起こさせるように)磁気物質の指示の有意味性は、我々の感覚器官を適切な程度に改良する可能性の関数であるのではない〔感覚器官を、磁気物質を直接知覚できるほどに改良しうる限りで、磁気物質が有意味であるのではない〕。それは、経験的法則そして究極的にはア・プリオリな原則にしたがった我々の現在の経験への、磁気物質の結合可能性の関数なのである。〔原則にしたがった経験に結合しうる限りで、磁気物質は有意味なのである〕。(vgl. A226/B273)
カントは知覚の可能性を、ア・プリオリな諸原則への[知覚の]適合可能性によって定義する。現象は知覚の度が微弱に過ぎて現実的知覚を与えない場合であっても、[それが諸原則に適合しうる限りで]可能な経験なのである(vgl. A522/B550)。
かくして、可能的経験を知覚状態の可能性によって定義する観念論と、一連のア・プリオリな条件への適合可能性によって定義する超越論的観念論との違いが明らかになった。この条件とは論弁的認識の条件であり、超越論的観念論の定義的特徴に他ならない。