Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「論弁性と判断」(2)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第4章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 87-96).

B 概念と判断:第二の説明〔超越論的論理学の観点から〕 

[判断は客観的妥当性を、つまり真理値をもつ(↔単なる連想された諸表象はそれをもたない)]

B演繹§19における判断についての論述の中心点は判断の客観性である。そこでカントは、自己意識(おそらくカテゴリーを含む)の「客観的統一」と、再生的構想力の所産である「主観的統一」との区別を説明している。カントは判断を「二つの概念の間の関係の表象」と定義する論理学者を批判することから始める:この関係とは何なのか?

……私は見出す,判断とは与えられた認識を統覚の客観的統一にもたらす仕方に他ならないということを。与えられた諸認識における関係小辞Verhältniswörtchen「である」はこのことを目指しており、それは、与えられた諸表象の客観的統一を主観的統一から区別するためである。(B141-42) 

判断の示差的distinguishing性格はその客観性にある。判断とは客観的統一であり、そのようなものとして統覚の客観的統一と相関する。あらゆる判断は「〔統覚の超越論的統一、つまり〕直観において与えられた多様のすべてが客観の概念へと合一される統一」(B139)を含む。すなわち、あらゆる判断は、諸表象を意識において総合ないし統一化すること――それに際して、諸表象は対象に連関するべく概念化される――を含む。 

さらに、判断は「客観的に妥当する一つの関係」であり、この関係は「単に主観的妥当性がそこにあるだけのまさに同一の諸表象の関係、例えば、連想の諸法則にしたがう諸表象の関係から十分に区別される。」(B142)。さて、ここで仮に客観的妥当性を真理と等価とみなせば、いかなる判断も真理となってしまう。客観的妥当性とは、むしろ、真理値をもつことと解されるべきである(プラウス)。「連想の諸法則にしたがう諸表象」、例えば太陽と熱の表象は、或る人の心的歴史における出来事にすぎず、真でも偽でもないことがありうる。つまり客観的妥当性をもたない。

[判断において諸概念は従属関係に立つ(↔連想された諸表象は対等関係に立つ)]

では、結局判断における概念間の関係は何なのか? 連想によって統合される諸表象は、一方の表象が他方を自動的に引き起こすtriggerという意味で、連繋・対等関係coordinationに立つ。対して、「すべての物体は可分的である」において「可分性」は「物体」に従属する。物体であるものは何であれ「可分性」によって述定可能である。この意味で、判断における概念間の関係は従属関係subordinationである(Longuenesse)。

III 分析的-総合的の区別

[分析的/総合的の区別の二定式とその諸問題点。第二定式のほうが優れている]

カントは序論で分析的/総合的判断を区別する二定式を与えている。

一、分析的判断とは、「述語Bが主語Aに、この概念Aに(隠されたversteckt仕方で)含まれている或るものとして属する」判断である。つまり「主語と述語の結合Verknüpfungが同一性によって思考される」判断である。対して総合的判断とは、「BはAと結びついているが、Bはまったく概念Aの外にある」判断である。つまり主語と述語の結合が「同一性なしに思考される」判断である。

二、分析的判断は「述語によって主語に何ものも付け加えず、主語概念をただ分解によって、それ自身においてすでに(たとえ混乱していても)思考されていた主語の部分概念へと分けるzerfällen」「解明判断」である。総合的判断は「主語概念に対して、主語概念のうちでは全く思考されていなかった述語、しかも主語概念のいかなる分解によっても引き出されえなかったであろう述語を付け加える」「拡張判断」である(A6-7/)。

カントは『プロレゴメナ』で第二定式を採り、この区別は判断の起源ないし論理的形式ではなくその内容に関わる、と述べる。また、この区別の基本点は、矛盾律に全面的に依拠しているか否かである(Pro4: 266-67)。

第一定式の問題点は次の通り。a. 定言判断にしか当てはまらない。b. 総合性が消極的にしか解されない。c. なぜ判断の内容に関わる区別なのか不明である。d. 一方の概念が他方に含まれているか否かをいかに規定するかが不明である。dについて、カントは二つの基準をもっているように思われる。内省introspectionによる「現象学的」基準と、元の判断の矛盾対当が自己矛盾であるか否かという「論理学的」基準がそれである (Beck)。しかし、両者は同じ結果をもたらすとは限らないし、前者は当てにならない。

第二定式は、a, b, cを解消する点でより優れている。ただし、d.与えられた判断の矛盾対当が自己矛盾か否かを、語の意味に、したがって「現象学的」考察に訴えることなしになされうるかという問題は残る。〔これは少なくとも本章では解決されない。〕

[総合的判断によって我々は、諸概念が同じ対象xに連関することを認識するという仕方で知識を拡張する(↔分析的判断は対象との連関にコミットしない)]

さて、我々は総合的判断によっていかなる意味で、またいかなる仕方で知識を拡張するのか。その前に分析的判断をみておこう。

分析的判断は概念の内包を明確にする。概念とは徴表の集まりである。例えば物体概念は、形態、不可入性、拡がりといった徴表(論理的本質)や、拡がりに下属する可分性といった徴表(徴表の徴表)の集まりである。このように概念の内包が明確化されることで、「すべての物体は可分的である」という分析的判断がなされる。この判断は対象との連関にコミットせず、「形式的」(JL9: 111)にのみ知識を拡張する。

対して、総合的判断は、「実質的」(ibid.)に知識を拡張する。例えば「すべての物体は引力をもつ」という総合的判断において、「物体」と「引力」の結合は、概念分析ではなく、両者が同じ対象xに連関するということにもとづいている。

IV 総合的ア・プリオリの問題

総合的ア・プリオリの問題とは、判断を非経験的でありながら〔↔ア・ポステリオリ〕概念的でも論理的でもない〔↔分析的〕仕方で根拠づけることが、いかにして可能か、という問題である。別言すれば、与えられた概念のもとに思考される対象についてのいかなる経験とも独立に、その概念を超えて知識を拡張することは、いかにして可能か、という問題である。

[なぜア・プリオリで総合的な判断は純粋概念を要求するか]

ア・プリオリで総合的な判断は、ア・プリオリなつまり純粋な概念のみならず、そのような直観をも要求する(Fort20: 266)。

まず、純粋概念が要求されるのは、経験的概念の対象との結合は経験的に確立されねばならないので、経験的概念のみによる総合的判断は経験的判断となるからである。(注意。ア・プリオリ分析的な判断は経験的概念のみによってなされうる。というのも、分析的判断は概念の対象との連関にコミットしないからである。また、ア・プリオリで総合的な判断は経験的概念を含みうる。例えば「いかなる変化もその原因をもつ」(B3)。ただしこの判断は「原因」という純粋概念をも含む限りでア・プリオリなのである。)

[なぜア・プリオリで総合的な判断は純粋直観を要求するか]

ア・プリオリで総合的な判断が純粋直観を要求することについては、三つの問いが生じる。1.そもそもなぜ直観が要求されるのか。2.なぜ経験的直観ではなく純粋直観が要求されるのか。3.そうした判断は、経験的な総合的判断と同様に、概念を直観に関係づけることを、つまり純粋概念のもとに純粋直観が包摂されることを要求するのかどうか。

1.直観が要求されるのは、判断において概念を共通の直観に連関づけること[のみ]が総合的判断を可能にするからである。

2.純粋直観が要求されるのは、(規定された)経験的直観は特殊的であり、普遍性と必然性(ア・プリオリテートの二基準)を満たさないからである*1

3.ア・プリオリで総合的な判断は、判断は、経験的な総合的判断と同様に、概念を直観に関係づけることを、つまり純粋概念のもとに純粋直観が包摂されることを要求する。純粋概念は、対象の直観の普遍的で必然的な条件に、つまり純粋直観に関係づけられるのでない限り、対象の領圏に普遍的で必然的に適用されることはないと思われる。

*1:規定されていない経験的直観が特殊的でないということは第4章第1節で述べられた。規定されていない経験的直観と純粋直観とには何らかの関係がありそうである。