Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「物自体と触発の問題」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第3章 Alison "Thing in itself and the problem of affection" In Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 50-57).

第3章 物自体と触発の問題

本章は三つの目的・部分をもつ。一。物自体についての語りは、それ自体としてある通りに考察された諸物についての語りに他ならないということと、この様式が超越論的反省という哲学の営みで重要な役割を果たすこととを実証する。二。物自体とヌーメノンおよび超越論的対象との区別について。三。触発の問題について、この着想はカントの立場にとって本質的であり、通例想定されるように批判の諸原則の違反を含まないと論じる。

1 物自体の問題:分析と再構成

ゲロルト・プラウスの分析によれば、Ding an sichとDing an sich selbstは、Ding an sich selbst betrachtetを規準とする省略的使用であって、前二者はこれを考慮して理解されねばならない。とはいえ少なくとも二つの重要な問題が残る。第一に、或るものをそれ自体として考察するということの両義性である。一方で、物をそれ自体で存在する何ものか、すなわち内的属性を備えたヌーメノン的実体とみなすことだと考えられるかもしれない(存在論的意味)。他方で、人間感性およびその条件との認識上のepistemic関係と独立なものとして考察することだとも思われる(認識論的意味)。

前者は後者を内含する。というのも、ヌーメノン的実体の内的属性は、我々を触発する様式と独立にそれに属するからである。逆は成り立たない。それ自体として考察された或る物は、独立したヌーメノン的実体ではなく、例えば、そうした実体の属性や関係とも思考されうる。

第二に、認識論的意味における物自体の考察の可能性と意味significanceとは? 我々が知りうるのは現象のみではないのか? そうした考察の眼目は何か? [既存の解釈を二つ(因果的解釈と意味論的解釈)取り下げてから、我々の解釈を提示したい。]

「物自体を擁護する」議論の第一の方針はこうである。現象の原因ないし根拠を認める必要から、物自体の思考は許されるのみならず不可避的である(因果的解釈 vgl. Pro4: 314-15; 107-8)。この解釈では、現象と物自体を二つの別個の存在者と取らねばならない。さらに、物自体を現象の超越論的原因ないし根拠と取るためには、それらをそれ自体として考察しうるのでなければならない。だが、まさにこのことが問題なのである。

二。カントは、現象概念と物自体概念との間の論理的含意を主張している。すなわち、現象という表現は、物自体という表現に寄生的であるparasiticか少なくとも相関的であるから、前者の使用は後者の妥当性を前提する(意味論的解釈 vgl. A251-52, Bxxvi-xxvii)。しかしカントの記述は表現というよりは存在者を指示していると思われる。その場合、センスデータへの指示は物質的対象との対比においてのみ理解可能であるという議論が連想されるが、これでは我々の二観点解釈による〔以下、物自体/現象を二考察様式と採るアリソンの解釈を形容する際、たんに、「二観点的」と呼ぶ。〕超越論的区別に直接適用可能なものとはならない。また、その場合、現象する何ものかなしに現象があることは不条理であるというカントの主張(Bxxvi-xxvii)は、現象するものがそれ自体、現象するものと別個の何ものかでもあるということになろうが、この主張は無根拠となる。

かくして、物自体の問題は、因果的解釈ではきわめて疑わしい因果推論に、意味論的解釈では不合理な推論に、それぞれ帰着してしまう。

我々の解釈ではこうである。物を、感性的条件との関係において現象として、つまり超越論的意味で我々の内なるものとして考察するためには、物が現象する際に示す性格(時空的属性等)と、同じ物がそれ自体で考察されるときにもつと思考される性格とを区別せねばならない。したがって、カントが仄示する「不条理」とは、物自体としての考察と対比することなしに、物を現象として考察することである。両考察は、超越論的反省という同じ行為の二側面に他ならない。

それが何ら情報を与えないということによって、物自体として考察することの意義significanceが損なわれることはない。むしろそれは意義の源泉なのである。というのも:

第一に、物自体としての考察が、認識として空虚であることは不整合ではない。不整合なのは、悟性が感性との条件を離れて物を思考できない時に限られる。

第二に、そうした考察は、超越論的実在論という「通俗的な想定」を避けるために必要である。ポイントは、物を現象として考察することは――これは論弁的認識の可能性を説明するために不可欠である――、物自体としての考察様式に対比することなしには無意味になるということである。