Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ロングネス「形象的総合と感性の形式」

  • Longuenesse, Béatrice. 1998. Kant and the Capacity to Judge. Princeton, NJ: Princeton Univercity Press, 211-242.

2018/5/20更新。

第8章 形象的総合と感性の形式

[形象的総合――就職論文に始まる時空の理論を完結させる道具立てとして]

形象的総合の説明と共に,カントはカテゴリーの超越論的演繹を,感性論で詳説された感性の形式に立ち戻ることによって閉じている。形象的総合の観念は,演繹論を閉じるための主要な道具立てであるのみならず,時空の理論――これの最初の輪郭は就職論文で詳説された――を完結させるものでもある。就職論文でカントは,時空は物自体の属性や関係ではなく,心に源泉をもつ形式ないし輪郭(formae seu species)であると論じた。形象的総合(synthesis speciosa)はこれらの形象を想起させる。就職論文でカントは,これらを感性に帰属させた。今や彼は,これらは構想力の総合それゆえ形象的総合の所産であると論じる。

[本章の概要。1.演繹論と感性論 2. 形象的総合と内官]

本章第1部分で我々は,上記のテーゼを擁護し,演繹論における形象的総合と感性論における時空との関係を分析する。第2部分で我々は,B版演繹での形象的総合の説明は,内官の理論――これは就職論文には欠けており,『批判』第一版で簡短にスケッチされたにすぎなかった――と対になっているということを示す。

[B版演繹の二つの柱。判断の論理形式と,形象的総合,内官]

本書ではすでに,判断の論理形式に明示的かつ体系的に訴えることが,B版演繹のA版演繹に対する主要な進歩であることを見た。今やこのことに,形象的総合と内官の理説がこの進歩への決定的寄与であるということが付け加えられる。悟性の側における判断の論理形式,感性の側における形象的総合と内官の理説とはそれゆえ,B版演繹の二つの柱をなす。これらが合わさって,カテゴリーの客観性およびカテゴリーが感性的所与に関係する仕方の解明が支持されるのである。

〔1〕形象的総合と,カントによるカテゴリーの超越論的演繹の完結

[26節の主題は,時空そのものである。その論証の骨子]

B版演繹第26節の議論は,第一部分であらゆる種類の感性的直観に対して与えられた証明を,我々の直観という特殊なケースへと単に適用することではなく,ずっとラディカルなものである。26節の主題は,カテゴリーの感性的直観一般に対する関係でも,我々の(時空的)感性的直観に対するそれでもなく,時空そのものなのである。

26節の主たる論証はこうである。(1)あらゆる覚知の総合は時空形式を前提している。(2)ところで,これらの形式はそれ自身,統一された直観として,統覚の超越論的統一――カテゴリーの源泉――のもとに立つ。(3)それゆえ,あらゆる覚知の総合は,それが時空形式を前提しているというたんなる事実によって,カテゴリーのもとで思考されうる。

この証明の負荷は(2)にかかっている。

超越論的感性論を再読する

[時空は総合によってもたらされ,かつ直観的である]

形象的総合は「悟性の感性に対する作用」(B152)である。すなわち判断する能力の働きである。にも関わらずこれは,いかなる判断の産出にも,それゆえいかなる概念の反省にも,いわんや直観のカテゴリーへの包摂にも先立っている〔!〕。カントはしたがって,こう述べることができる。時空は悟性が感性を規定する場合に限り与えられ,かつ直観的(直接的で個別的な表象)であり論弁的(普遍的ないし反省された表象)ではない,と。

[形象的総合は直観形式も形式的直観も扱う]

よく解釈されるように,感性論が直観形式を,演繹論は形式的直観を主題とするというわけではない。24節および26節の形象的総合によって回顧的に明確化されているのは,双方の観念なのである。

[逆説の提示。多様しか与えない直観形式(26節),統一を与える直観形式(感性論),統一を与える形式的直観(感性論,26節)]

次のような逆説があらわになる。26節は,多様しか与えない直観形式と〈形象的総合が多様に統一を与える形式的直観〉とを区別している。対して感性論では,直観形式と純粋直観とは明らかに統一されている。それゆえ両者は形象的総合に依存しているように思われる。しかしそうだとすると,多様しか与えない直観形式とは何なのか,と。

感性論における直観形式と純粋直観を考察し,その上でこの困難への解決を提案することにしよう。

[(質料との関係における)純粋直観=直観形式が,形象的総合によって産出される]

感性論。時空という純粋直観は,フェノメノン的質料から独立に考察される限り,直観形式ないし現象の形式から区別されうるが,現象の質料との関係においては,純粋直観はそれ自身現象の形式である。

演繹論24節および26節における形象的総合ないし「感性に対する悟性の作用」は,時空という純粋直観を産出し,それによって現象の形式,直観の形式,感性の形式を産出する。

[感性が対象と関係する能力である(感性論)限り,それは内部からの触発を容れるのでなければならない(演繹論)]

感性論でカントは,感性を,直観をもたらす能力として特徴付けた。これは,感性がたんに意識を伴って触発される能力ではなく,〈対象と関係する・意識を伴う表象〉の能力(capacity for conscious representations)であることを意味する*。ところで我々は,24節および26節から,もし感性がそうした能力であるなら,それは外部からの触発に対してのみならず,内部からの,すなわち心の自発性ないし形象的総合の働き――これのみが外的触発を対象の直観へと変えうる――の触発に対しても受容的でなければならないことが分かる。時空はたんに外部からのみならず,内部からも触発されうる感性(受容性)の形式なのである。

[逆説の解決。多様しか与えない直観形式(26節)とは,潜在的形式である]*1

それゆえ感性論で詳説された直観形式は,純粋直観と同様に形象的総合の所産である。とすれば,当該の逆説はどう解されるべきなのか?

答え。時空は感性論では形象的総合の所産として提示された。ところで,そうした産出が可能であるべきなら,その潜在性は受容性それ自身に含まれていなければならない。多様を与える受容性は,この(感覚の・知覚の・しかし直観のではない*)多様が時空において秩序づけられることを潜在的許す仕方で構成されていなければならない。表象的受容性,すなわち触発を感覚(意識を伴う表象)へと処理する能力はまた,これらの感覚を時空の直観において提供しうるのでなければならない。このことは,外部からの触発が内部からの触発――形象的総合――の機会原因である場合に生じる。受容的能力の形式はそれゆえ,たんなる潜在的形式,すなわち形象的総合によってのみ現実化される形式である。カントが26節で直観形式について語るとき,彼はこの潜在的形式を念頭においている。ただし,感性論を含む通常の文脈では,感性の形式とはたんなる潜在的形式ではなく,現実化された形式,すなわち自発性の介入によって総合された形式,すなわち形式的直観なのである。

*術語法上の注意。表象は,意識を伴う限り知覚と呼ばれる。知覚は,対象と関係するか/否かに応じて,認識/感覚と呼ばれる。認識は,直接的に対象に関係するか/徴表によって間接的に関係するかに応じて,直観/概念に区分される(A320/B377)。

[形象的総合がカテゴリーに先立つのは,それが〈判断の論理形式下での反省〉を可能にする特殊的総合に先立つからである]

形式的直観は「いかなる概念にも先行する」(26節注)という記述に従うなら,この直観をもたらす形象的総合もまた,あらゆる概念に,それゆえカテゴリーに先立つことになる。これは次のように解される:

時空は,形式的直観として,第一の最も根源的な「悟性の感性に対する作用」である。形象的総合は,こうした形式的直観の範囲内で〈判断の論理形式に従って概念の下で反省されるべき,所与の多様〉を産出するのである。そのような形式的直観は,あらゆる規定的(経験的であれ数学的であれ)概念に先行するのみならず,普遍的概念(カテゴリー)にも先行する。というのも,これらは〈判断の論理形式の下での反省を可能にする各々の特定の総合〉に先立つ(かつ当の総合の必要条件である)からであり,いわんやカテゴリー(総合の普遍的表象)に先立つからである*2

[まとめ]

多くの解釈者たちは,26節は,時空の未規定的表象(「直観のたんなる形式」。これは感性論の主題とされる)を,概念によって規定された時空表象(形式的直観)から区別しているとみる。他方我々の見るところ,感性論の直観形式と純粋直観との双方が,形象的総合の所産であると演繹論第二段階で明らかにされたのである。26節の形式的直観はそれゆえ,感性論の直感形式および純粋直観の双方と同定される。さらに,感性論で直観形式が純粋直観から区別される場合,その区別は,直観形式が質料と対になっている一方,純粋直観はあらゆる質料を捨象して考察されるという理由に基づく。

[現象がカテゴリーの下で認識されることと,認識されうる(カテゴリーに従う)ことは別である。後者は,現象が時空――形象的総合の所産――のうちで与えられるということから帰結する]

26節の議論を受けいれるなら,現象が時空のうちで与えられるというまさにその事実が,現象がカテゴリーに従うことの十分な理由である。現象が(直観「のうちで」と同じ意味では)カテゴリーのうちで与えられない,あるいはカテゴリーのもとで認識されさえ――比較/反省/抽象という関連する働きが,アプリオリな構成とともに,そうした認識を生み出すまでは――しないということが真のままであるにしても,である。感性論の時空は形象的総合の所産なのだから,現象がそれらのうちで与えられるということは,それらが「判断の諸形式の一つに関して,[本書注:それ自身]規定されたものとして」(Prol. §21)認識されうることの,それゆえカテゴリーのもとに包摂されうることの十分な根拠なのである。

[時-空直観の産出の・それゆえ内官-外官の結びつき]

カントは,時空のうちで覚知された現象がカテゴリーに従うことを例証するために,二つの例を挙げている(B162-63)。これは,彼が時空という二つの別個の直観を記述していると思わせる点でミスリーディングである。彼はむしろ,空間直観の産出としての形象的総合を,時間直観の産出によって説明し,逆に時間直観の産出を空間直観の産出によって説明している。外官と内官は,それらが統覚の客観的統一に対して共通の関係を持つことによって,互いに結びつけられている。我々は形象的総合における外官と内官の関係へと考察を移そう。

〔2〕形象的総合,外官,内官 

[形象的総合で,心は(1)外的知覚を結合しつつ,かつ(2)同じ働きによって内官を触発する]

形象的総合,すなわち「悟性による内官の触発」における「触発」とは,二側面をもつ。第一にこれは〈それによって悟性が内官を,与えられた[知覚の]多様によって〔with, durch〕触発する働きである。第二に,悟性は内官を,結合というおのれの働きによって〔with, gemäß〕触発する(B150-51)。これら二側面は相互依存的である。自発性(悟性)として心は〈外的直観の形式において受容するもの〉を結合し〔1〕,かつ心は[同時に],それ自身を,内官として,この結合によって触発する〔2〕。

[両直観が共に産出されることは,空間的直観を産出(図形を描出)する働きに,その働きの直観が依存していることに明らかである*3]

結合と自己触発のこうした働きの本来の機能は,経験的所与を総合することである。とはいえこの働きは純粋な側面をもち,これは幾何学的概念のアプリオリな構成において示されている。時間的直観と空間的直観の不可分性,すなわちこれらが一緒に産出されるという事実は,形象的総合のこうした「純粋な」側面において最も明らかである。悟性が空間の直観を産出するのは,悟性が内官を当の産出によって触発する限りにおいてである〔さもなければ自分の働きを直観できないことになる〕。悟性はその際また〈そこにおいておのれの(空間的直観を産出する)働きを直観する形式としての時間〉という直観を産出する。もし仮に,空間内に図形を産出する働きがなければ,時間の直観は存在しないであろう。双方の直観は自己触発という一個同一の働きの結果なのである(B154)。

[時間は,我々自身の働きの直観内容として見出されるのではなく,その直観形式として根源的に産出される*4]

我々は時間の直観を,空間内の事物の運動を知覚することによって得るのではない。むしろ我々自身の働きから得る(B155)。

時間が内官の形式と呼ばれる理由は,まさに時間が〈そこにおいて我々が我々自身の表象作用を直観する形式〉だからである。ところで,「時間が我々の働きの直観の形式である」と語ることは,「我々が時間を外官のうちに〔内容として〕見出されるのではないのと同様,我々が時間を内官において見出されるのではない」と語ることに等しい。〈そこにおいて我々が図形の産出の継起的性格を知覚する時間〉という直観は,ちょうど空間の直観のように,形象的総合によって根源的に産出される(B155)。

カントはB162-3の例でしかし,表象という我々の働きの時間的性格ではなく,むしろ経験的対象の時間的性格を扱っている。いかにして24節の形象的総合が,この二面性を正当化するのかは[まだ]明らかではない。

就職論文における時間の二面性

[(1)数学的操作の感性的条件としての,あるいは(2)等位秩序の形式としての時間]

この困難は真新しいものではない。すでに就職論文でカントは,二つの側面の下で時間を考察していた。一方で,時間は〈あらゆる直観的に表象可能な=有限回の合成と分割〉の――つまりまたあらゆる数学的操作の――感性的条件である。

他方で,時間は,空間がそうであるように,感性的事物の形式ないし輪郭(configuration)であり,この形式は事物に対して我々の心の特殊な本性によって刻印される。この観点からは,時間と空間は,同程度にそして同じ仕方で感性界の形式である。外官と内官の区別はこの点では役割を果たさない。ちょうど空間のように,時間は〈それによって我々が諸感覚――外的対象の,我々の感性に対する結果――を等位的に秩序づける(coordinatte)形式である(§13, Ak. II, 398; 391)。

[(1)-(2)の関係が理解可能なのは,(2)によって等位的に秩序づけられる感覚が〈内的感覚=自己触発の場としての感覚〉と同定される場合のみ。これはB版を待つ]

「我々の諸感覚の等位秩序」の形式としての時間と,の直観との関係(空間の量を理解可能にするには継起的に数えることが必要である(Ak. II, 405-6; 399-400) )とは何なのか? 

それが理解可能なのは,数学的操作の感性的条件としての時間がまた,諸感覚の等位秩序の形式としても解される場合のみである〔さもなければ二つの時間が生じてしまう〕。しかしこうした感覚とは何か? それは外的〔で経験的な〕感覚ではありえない。その場合数学は経験的認識となってしまうからである。したがってそれは〈そこにおいて心がそれ自身を触発する内的感覚〉でなければならない*5。そうした触発の観念なしには,数学的思考の必要条件たる時間と外的感覚の等位秩序の条件としての時間との間の統一性は失われるのである。

しかしこうした解決は就職論文にはない。時間を内官と連合することが,この解決への第一のステップである。そしてB版での形象的総合の理説が,この解決の明示的で完全な説明を提供しているのだ。

内官:就職論文から『批判』へ

[時間の経験的実在性を主張する心理学的反論が,時空を別個に扱わせることになった]

1772年のヘルツ宛書簡――ここでカントは就職論文に対する様々な批判に答えている――で,時間は明示的に内官に帰属される。私の見るところ,これらの批判は,誤解として拒否されているとはいえ,時間は内官の形式であり空間は外官のそれであると特定させることに重要な役割を果たしたのである。

メンデルスゾーンとランベルトは,時間を感性の形式すなわち我々に現象する限りのみでの諸物の規定として記述することを受け入れがたいとみなした。彼らによってカントの見解――本来存在論的な,そしてその背景に合理的宇宙論論議をもつそれ――は心理学的観点から――我々の表象の継起は疑いがたく経験的に実在的であるとして――批判された。カントはこの反論に対して驚いた。彼は彼自身の理説を,時空はフェノメノンにすぎないというライプニッツのテーゼの徹底化に他ならないと考えていたからである。この観点からすれば,時間を空間と別個に扱う理由はない。しかしカントは,ヘルツ宛書簡のみならず『批判』第一版でもまた,この反論に答えている。彼がそうした努力を払った理由は,私見では,当の反論が時間と内官との関係に注意を払わせたからである。

「内官の証言によって」時間の実在性は空間のそれよりも直接的に不可疑であるという ランベルトの主張(Ak. X, 134; 75)を受け入れ,カントは時空の関係をさらに検討せねばならなくなった。その結果感性論で,空間は外官の形式,時間は内官の形式として提示される。

[内感と外感の区別の源泉をロックに求め,ロックとカントの分析を比較する]

内官と外官という観念は,ドイツ学校哲学ではきわめてよく知られていた*。しかし私の指摘するところでは,カントのここでの論議はむしろロックを反映している。というのも,カントが外感outer sense(これをロックはたんにsensationと呼んだ) を空間と,内感を時間と相関づけることを見出すことができたのはロックだからである。したがって『人間知性論』でのロックの分析と感性論でのカントの分析を比較することは,第二版で詳説された形象的総合における時間の二側面(総合の我々自身の働きの形式としての時間と,対象自身の形式としてのそれ)を明確化するのに役立つ。この比較はまた,カントが就職論文での形而上学的着想と,ランベルト・メンデルスゾーンの反論の経験的心理学的着想とを結合した仕方を評価することを助けるだろう。

  • *〈心のそれ自身の働きと表象に対する反省〉として解される内感の観念を,我々はロックに負っていると思われる。内感と外官はヴォルフの『経験的心理学』(II, chap. 2: De sensu)では触れられない。しかしバウムガルテンの経験的心理学(『形而上学』§§504-669)には「 感官は,私の魂の状態を表象する内官であるか,私の身体の状態を表象する外官であるかである」と述べられている。また内官はテーテンス『人間本性とその展開についての哲学的試論』(1777)で詳細に分析されている(cf. De Vleeschauwer, Deduction, I, 299-322)。
  • 注意。カントの『人間学』§15でも見出されることだが,単数形の外官は,複数形の諸外官の与件――これが表象にとって外的な対象へと我々を関係づける――を結合する役割を果たす。

内官の形式としての時間:カントとロック

[ロック。〈時間=測定されうる限りの持続〉の観念の源泉は,諸観念の継起にある]

ロックによれば,我々は空間の観念を視覚と触覚――カントが後に外的諸感官と呼ぶもの――を通じて獲得する。他方我々は時間の観念を,内官を通じて獲得する。より精確に言えば,時間の観念とは,測定されうる限りの持続(duration)の観念である。そして持続の観念は,継起の観念と同じように,反省ないし内感の観念なのである。

〈我々の諸観念の継起に内的に気づくこと〉を媒介してのみ,持続の観念は外的諸物に適用されうる。諸観念の知覚された継起が,外的諸物の継起およびそれらの状態の知覚される手段なのである。というのも,知覚不可能なほど速いないし遅い変化によっては,継起は知覚されないからだ*6にもかかわらず持続を〔知覚ではなく〕計測するということになると,諸観念に外的な諸物の状態――より特定すれば一定の規則的な運動――が,時間の測定手段なのである。時間の測定において運動が果たす役割のゆえに,運動は時間の観念の起源・原本(origin, the original)と思い誤られてきた。

[カントも同様の主張をした]

カントが「時間は外的には直観されない〔Longuness注:すなわち外的対象の状態の変化を通じては直観されない〕.これは空間が我々のうちの或るものとして直観されないのと同様である」(A23/B37, cf. A33/B49-50)と書いたとき,彼は上記のロックの説明を念頭においていたと思われる。もし我々に直接的に現前する唯一の継起が我々の観念の継起であるならば,時間は外官ではなく内官に関係づけられるべきである*7

知覚されるためには,諸物の諸状態の継起は,何らかの仕方で我々の諸観念(諸表象)の継起と調和していなければならない。A34/B52に,就職論文から『批判』への移行が明らかである。すなわち,内官のうちに与えられることを介してのみ,あらゆる現象は,外的であれ内的であれ,時間的規定を有するのである。

[ロック/カントの相違点(1)。時間は,表象およびその対象のそれ自体としての規定である/ない]

ロックとカントの両者は,ただ我々の表象の継起のみが直接的に知覚されるという点では共通である。しかし内的継起と外的継起との関係は両者で異なっている。ロックでは,両継起は,多かれ少なかれ比較可能なペース(rate)で進行する出来事の二つのパラレルな鎖というイメージであった。カントにとって,当の関係はカテゴリーの図式論に属する(後の諸章を参照)。

両者の相異は,時間の存在論的特徴づけの根本的違いに関係している。ロックにとって継起,持続,そして時間は,表象およびそれが表象する事物の・それ自体としての規定である。カントにとってこれらは,内官において〔外的現象においてはもとより〕それ自体として実在する規定ではない。「時間は内官の形式である」と語ることは,「時間のあらゆる知覚は,内官における我々の諸表象の継起の知覚である」と語ることにとどまらず,「時間とは〈それにしたがって,内官がそこにおいて表象されるものを覚知する形式〉である〔にすぎない〕」と語ることでもある。

[ロックは,内官を受容性とみなした点で新しかった]

ロックはとはいえ,内官を,外的受容性を手本として解されるべき受容性として扱うことによって,時間と内官との関係をカントがこのように徹底化するための道を開いた。ロックにとって,心は内的にないしそれ自身に対して受容的であり,これは心が外的にないし〈心に対して外的な諸物〉に対して受容的であるのと同様である。

[相違点(2)。カントにおける内感と反省の区別]

カントはまたロックに反して,内感を反省(reflection)から区別している。反省という語のカントによる使用は次の三つに分かたれる。第一に,反省は,諸表象を意識の統一に関係づける働きである。すなわち『第三批判』での「たんなる反省的判断」によって,普遍的概念を形成する働きである。第二に,こうした概念を比較する働きである(「多義性」章における「論理的反省」)。最後に,あらゆる表象を認識力におけるその場所(locus)へと関係づける働き(超越論的反省)である。

[外官と内官。前者の形式自身の直観は,後者が・後者の形式にしたがって触発されることによってなされる]

外官と内官の間に確立された複雑な関係は,形象的総合において十全に説明される。それはおよそこうである:我々の受容性は〈対象が空間形式においてのみ外的対象として直観される〉という仕方で構成されている。ところで空間形式それ自身が直観されるのは,〈与えられた認識の多様が統覚の客観的統一へともたらされる働き〉が内官を触発する限りにおいてのみである。この働きのおかげで,多様は意識を伴って知覚される*8のであって,またこのことは時間形式においてのみ生じる,と。

[覚知の総合から質料を捨象して考察されたものが,形象的総合である]

それゆえB版演繹は感性論の部分的な修正へと導く。B版感性論第7節に付け加えられたパッセージを見よ。そこでカントは内官の表象の二重性格を強調している。(a)一方で内官は外官に与えられるのと同じ素材をもつ。(b)他方で内官は「心がおのれの働きによって触発される様式」にほかならない。(a)もし外官の所与によって内官を触発する働きが,経験的質料(知覚の所与)をもつなら,その働きとは覚知の総合(演繹論26節)である。(b)他方こうした働きが,それ自体で=経験的質料から独立に考察されるなら,形象的総合(24節)――これはそこにおいて経験的所与が結合される時空形式を産出する――以外の何ものでもない。

形象的総合における時間の二側面

[両総合での時間の不一致:時間は,形象的総合において空間と共に産出されるが,覚知の総合においては空間と別個の直観である]

こう反論されるかもしれない。24節における形象的総合の事例と,26節での覚知の総合の事例とは不一致である,と。後者では,時空は二つの別個の直観として扱われていた:家の知覚とは,空間において総合される経験的直観のことであり,水の凍結の知覚とは,時間において総合される経験的直観である,と。他方前者でカントは,時空の純粋直観は,例えば線を引くという働きにおいて一緒に産出されると述べていた。

[純粋直観の継起的性格と,覚知の継起との源泉を,内的触発――その形式を内官形式=時間としてもつ――に求める]

我々が就職論文の分析で指摘したのは,時間の二側面は,時間が内官の形式と定義されるなら適切に統合されるということであった。というのもその場合,(算術的ないし幾何学的な)量の直観の継起的性格と,(例えば水の凍結といった)経験的所与が覚知される時間的継起との双方が,心の・それ自身の働きによる触発に,源泉をもつことになるからだ。

[純粋総合と経験的総合の相違点:直観内容]

純粋な事例と経験的な事例の間の相違点はこうである。前者では触発は純粋に内的である――というのも心は継起的総合においておのれの産出の働きのみを直観するから――であるのに対して,後者では心はおのれの働きとともに〈それによって当の働きが内官を触発する外的な経験的所与〉をも直観するという点にある。

[共通点:時空直観の相互依存]

双方の場合において,時空の直観は互いに依存し合っている。純粋総合[の場合]において[空間的な]線の産出が継起的であり,[継起的な]枚挙が準空間的であるのならば,同様にして経験的総合[の場合]において家の空間的覚知は継起的であり,凍結の時間的覚知は水の空間的配列を前提する。

[時間の二重性の問題:空間的覚知における・形象的総合の時間的性格と,時間的覚知における・経験的対象の時間的性格]

とはいえ依存関係は〔家と凍結の〕二つの場合において同様のものではない。なぜなら時間性が同じ種類のものではないからである。より精確に言えば,家の空間的覚知の時間的性格は,純粋直観における線の覚知の時間的性格と同じ種類のものである。双方の場合において時間は内官の・覚知の働きによる触発の形式である*9。他方,水の凍結の時間的性格は別の種類のものである。これは覚知の我々の働きにではなく(経験的)対象それ自身に依存しているように思われる。それゆえ我々はまた最初の問題に直面する:いかにして我々は時間が二側面――純粋な形象的総合の時間的性格と〈形象的総合がそれによって内官を触発する経験的対象〉の時間的性格――をもつことを正当化するのか,と。

当の二側面は第二類推の核心部である。一般的に言えば,我々は判断の論理形式に従った知性的総合と同じ数だけの側面を形象的総合がもつということを見るだろう。こうした様々な側面が,我々の研究の次の主題である。

*1:この主張は,能力の最も原初的な・いわば地に足のついた要素が,感性論ではなく演繹論で述べられているとする点で,アクロバティックな印象を与える。また,Falkensteinの解釈――直観形式はもっぱら顕在的形式であり,形象的総合によって構成されるものなどではない――と鮮明に対立している。後者の解釈を,統一をもつ直観形式と多様しか与えないそれとの区別をどう処理しているか,あるいは区別を認めない――統一をもつそれを認めないことによって?――のか,という点に注目して読む必要がある。

*2:カテゴリーが特殊的総合に先立つ,というのはよく分からない。おそらく本書で既述

*3:逆の依存関係についてはLonguenesseは説明していないと思う。

*4:「我々自身の働きを直観する形式で(なぜか)ある」までは言えるとして,その形式を産出するということが説明を要する点である。

*5:外的で非経験的な感覚という候補が排除されているように見える。

*6:これはしかし観念を導入する理由にはならないのではないか。要求されるのは,一定の範囲の変化だけではないか。

*7:他方「我々に直接的に現前する唯一の並存が我々の観念の並存であるので,空間は外官ではなく内官に関係づけられるべきである」と言えないのはなぜか?

*8:分からず。

*9:注意すべき点。

ロングネス「「我思う」についてのカントの議論」

  • Longuenesse, Béatrice. 2017. I, Me, Mine: Back to Kant, and Back Again. Oxford University Press, 73-82.

第4章 「我思う」についてのカントの議論(Kant on ‘I Think’)

本章は次の3点を扱う。(1)デカルトのコギト論証にあって「思う」が一人称で述定されることがなぜ重要であるかを説明する。(2)カントの演繹論における一人称での述定の理由が、デカルトのそれと違うと論じる。(3)デカルトのコギト論証についてのカントの誤謬推理章での論議を検討することを通じて、「我思う」からの「我あり」の導出に対してカントの与えている正当化が、デカルトのそれからどの程度異なるかを明らかにする。

4.1 デカルトの「我思う、ゆえに我あり

[「我思う」の「我」は(α)truth-makerであり、また(β)そのことに気づく]

「思惟が起こっている」という非人称的命題に対して、「我思う」という命題は二つの弁別的特徴――意味論的なそれと認識的なそれ――を有している。(α)意味論的な特徴。「思惟が起こっている」という命題は、思惟のいかなるエピソードによっても真になる。対して「我思う」は、当の命題を今思惟している者によって・彼が当の命題を思惟しているという理由で真になる。

(β)認識的でより重要な特徴。「我思う」は、当の命題の思惟者によって思惟されているという理由から真であるのみではない。この命題はまた、当の思惟者によって疑いなく真と知られる

まとめよう。述語「思う」を非人称的仕方でではなく私について断定するということは、(β)「我思う」を思うことが〈当の命題を真にするのみならず、当の命題が真であることを知りもする主観〉について真であると主張することに他ならないという事実を表現している。(α)この主観は、当の命題を今思惟している主観である。

4.2 カントの「我思う」

[「我思う」は直観的/概念的双方の統一の要因である]

B版演繹をA版演繹から区別する重要な違いは、カントがカテゴリーのアプリオリな妥当性に対する論証を、(a)判断の論理的機能の、統覚の統一に対して概念的構造を与える際の役割と(b)時空の統一が、直観における対象の諸表象に対して、関係の一つの共通の枠組み(one common frame of reference)を与える際の役割とをめぐって組み立てていることである。あらゆる私の表象に伴いうるのでなければならない、「我思う」という命題は、(b)〈そこに我々が直観の対象を位置づける時空の想像されたimagined統一〉と、(a)〈判断や推論で結びつけられる諸概念の属する論理空間〉の統一すなわち一貫性を仮定することとの双方の要因たる(responsible for)自発性の働きを、論弁的に(つまり判断における諸概念の結合の形で)表現している。「我思う」にあって「思う」が「私」について述定されるという事実は、結合する働きを意識していることの概念的表現なのである。

[第二省察と演繹論。議論の標的と戦略の違い]

演繹論での「我思う」(↔第二省察のそれ)は、〔任意の概念が指示する〕実在についての懐疑に対する解決策として導入されたのではない。むしろ標的は、第一義的に因果的結合〔という特定〕の観念(概念)の客観的妥当性に対して向けられる懐疑論である。カントは、「我思う」は「我あり」が真でない限り真でありえないという主張(デカルトの答え)へと進むことには関心がない。彼はむしろこう進むつもりなのである。私が自己に帰属するあらゆる表象は、それらを結合し比較する一個同一の働きにおいて取り上げられる(taken up)ことのゆえにそう帰属されるのである。その働きは若干の普遍的な悟性概念に従って規定されており、それには因果的結合の概念が含まれている(カントの答え)、と。

[演繹論の「我思う」の議論の眼目は、(α)truth-makerであることおよび(β)それへの気づきにではなく、その気づきを引き起こすもののいわばメタ的な説明にある]

演繹論の「我思う」における「我」の役割は、コギト論証でのそれと両立可能である。なぜなら、カントの主張――「我思う」は、統一する活動の為し手の・その活動に従事しているという意識を表現している――から、(α)「我思う」を思惟する者は、彼の思惟のゆえに当の命題のtruth-makerであるという主張、そして(β)「我思う」は、自分が当の命題を思惟していることのゆえに当の命題のtruth-makerであるということへの思惟者の気づきを表現しているという主張までは短いステップだからである〔下線を加えればよい〕。

(α)(β)がデカルトのコギト論証における一人称性の二つの意義であったことを思い出そう。上段落のように並べれば分かるように、カントは〈何が思惟者をして彼自身を当の命題のtruth-makerとして意識せしめるか〉の説明を、換言すれば、「我」について「思う」を断定する認識上の根拠〔どういう認識上の機能が働いているか〕――ひとが懐疑からの脱却を企てているか否かに対して中立的なそれ――の説明を加えたのである。

クレンメ「人格性の誤謬推理」(1)『カントの主観の哲学』

  • Klemme, Heiner F. Kants Philosophie des Subjekts. Systematische und entwicklungsgeschichtliche Untersuchungen zum Verhältnis von Selbstbewußtsein und Selbsterkenntnis (Kant-Forschungen 7), Hamburg: Felix Meiner Verlag (1996), 333-37.

訳注に付す。

ファルケンシュタイン「導入」「直観と悟性の区別」『カントの直観主義』第1章

  • Falkenstein, Lorne. Kant’s Intuitionism: A Commentary on the Transcendental Aesthetic. Toronto: University of Tronto Press (1995), 3-47.

(5/1更新)

導入

[われわれの基本的立場]

空間についてのカントの生得説は、構成主義的というよりむしろ直観主義的である。つまり、空間は何らかの認識的活動を通じて能動的に構成されるのではなく、我々の第一の最も原始的な経験において認識的システムによって受動的に受容される。これに反して、近年の多くの解釈者たちは、空間を知的活動――例えば総合――によって初めて構成されるものと解した。これが誤りなのは、A15-6/B29-30からも見て取れることだが(26)。

我々は空間の構成主義的解釈に反論するに際して、次のことを要請する:カントにとって生まの与件は構造的に複合的である。すなわち時空において配置された物質の配列からなる。そして後に示されるように、感官に根源的に与えられた所与は、場所においてのみならず内包量においても異なる、と。

[生得説/経験説。直観主義/構成主義]

一般に生得説/経験説の区別は、経験の役割に関わる。〈感覚がインプットを与え、知識の主張ないし命題的態度がアウトプットをなす情報処理装置〉を心のモデルとして考えよう。当の区別の基準はこうなる。(1)あらゆるインプットが感官経験から来るか否か。(2)あらゆる処理は過去の経験から学ばれるか否か。(1)を拒否したのはデカルト *1プラトン、トマスリード。支持したのはロック、ヒューム、アリストテレスである。(2)を拒否したのはデカルト『屈折光学』。支持したのはバークリであった。

直観主義/構成主義の区別は、認識における処理の役割に関わる。直観主義は、一定のアウトプットがすでにインプットに含まれていると考える。感覚的インプットについてこう考える論者は感覚主義的直観主義者と呼ばれる(e.g. アリストテレス『デ・アニマ』II, vii)。 その他のインプットについてそう主張する論者は、非感覚主義的直観主義者と呼ばれる(プラトンデカルト『屈折光学』、リード)。他方、アウトプットはインプットに含まれていないと考えるのは構成主義者であり、バークリやリードがこれに含まれる。

[形式的直観主義]

非感覚主義的な直観主義者でありかつ経験主義者である論者が、哲学史上二人だけ(12)存在した。この立場は形式――そこにおいてアイテムが受容される秩序のこと――的直観主義と呼ばれる。これは、我々は時空的諸規定についての感覚を持っているとする感覚主義〔的直観主義〕からも、時空的関係の知識はあらゆる経験に先立って心に現前しているとする生得観念の生得説〔特に非感覚主義的な構成主義〕からも区別されねばならない。この立場は、問題の形式が感官経験を通じてのみ与えられるとするか、ある種の生得的特性に基づくとみなすかという、経験説的あるいは生得説的な変種をもつ。前者がヒューム『人間本性論』(1, 2, 3)、後者がカントである。

[形式的直観主義が無視されてきた理由]

カントの形式的直観主義が無視されてきたのは、カントの直観を構想力の総合の所産とみなす、つまり構成主義的に解することによってであった。しかし直観は思考および構想力の総合によってもたらされる表象から別個のものと見なされねばならない。

第一部 カントの表象に関する術語法(超越論的感性論§1)

第一章 直観と悟性の区別

感性/悟性の区別は、アリストテレスによるアイステーシス/ヌースの区別にまでさかのぼる(『デ・アニマ』427, d7-15. Vgl. A21n/B35n)。「大いなる光」が与えられた直後の仕事である1770年の就職論文で、カントは感性的/知性的な認識的機能を鋭く区別することによって、スコラ的な二能力的説明を再導入した。これによって一連の形而上学的問題を解決できると彼は考えたのである。

[背景の説明。概念の構成への訴えは、ライプニッツのプログラムとも、ライプニッツ/ニュートンの空間の理説とも相容れない。]

さかのぼること1764年の懸賞論文で、既にカントは〈そこにおいて証明が基本的定義から同一律矛盾律のみに訴えることによって引き出される純粋に公理的な数学〉は不可能であると確信していた。代わりに彼は、数学的命題の明証性を証明するためには「構成」に頼ることが必要だと考えた(AkII, 278-9, 291)。このことは、あらゆる知識を純粋に論理的な計算に還元するライプニッツの合理主義的プログラムへの確信を揺るがしたであろう。

同じ時期にカントは、空間の存在論的身分をめぐるライプニッツニュートンの論争に苦心していた。[カント的には、]幾何学において図形を描出することに訴えることの必要性が示すように、空間はそれ以上原始的なものに還元することはできず*2、それゆえ、それ自身である種の実在性を持たねばならない。このことは〈空間的関係はモナド的実体の内的属性の混雑した知覚にすぎない〉というライプニッツの立場に不利に作用する。しかし他方、ニュートンの理説には、実在的・積極的性質を欠いた空虚な空間に何らかの実在性を帰属するという概念上の不合理と、絶対的時空は神性に対抗するという神学的困難*3とがあった。

[カントが理論的に受け継いだもの。アリストテレス的二能力説。個別者の受容と普遍者の抽出]

アリストテレス的伝統によれば、低次の認識能力すなわちアイステーシスは、生理学的なものである。すなわち、感覚する働きは、知覚者の身体における特定の器官によってなされる。こうした器官は、その質料に外的対象の形相が刻印されうるものである。(その刻印の所産は、心象phantasmないし感性的形象sensible speciesと呼ばれる。) 外的対象の形相はこうして、感覚器官の質料と外的質料とにおいて同時に実在する。

他方、〈感性によってもたらされた個別者〉から普遍者を引き出すという仕事は、生理学的機構――これはたかだか質料的心象を分割ないし結合して、他の質料的形象を産出するにすぎない――によっては果たされない。したがって、第二の・高次の認識的機能、すなわち心ないし知性の機能が要求される。

[伝統的二能力説からの逸脱。(1)現象/物自体の区別との呼応 (2)感覚与件の不要性 (3)直観的/論弁的の区別との対応]

就職論文におけるカントの二能力の区別は、感性を生理学的な能力、知性を精神的なそれとみなす限りにおいて、また感性を通じて認識される対象を個別者、知性を通じて認識される対象を普遍者とみなしている限りにおいて伝統的である。

対して非伝統的な要素の第一は、感性は諸物を現象する通りにしか表象せず、他方知性を通じて我々はそれらをあるがままに認識する(§4)というものである。

第二の逸脱は、知性の「実在的使用」(§5)の要請に関わる。中世のアリストテレス的伝統では、感性を通じて与えられていない何ものも、知性に現前しえない。他方カントによれば、知性は――感覚与件から抽象するのではなくむしろ感覚与件を捨象することによって――感性に依存することなく物自体の知識を与えうる。

第三に、感性/知性の区別が、直観的/論弁的の区別に対応させられる。a. あらゆる直観的認識は感性に帰属される。これは、プラトンアウグスティヌス的伝統の照明説を引き合いに出すまでもなく、経験主義的スコラ的伝統――知性における普遍者の現存は、感性による知性の触発の直接的所産であるとする〔つまり間接的直観といえよう〕――にさえ反している。

b. 逆に、感性はもっぱら直観的な能力となる。伝統によればそうではなかった。外的感官に加えて促進的facilitativeないし産出的な〔つまり非直観的な・少なくとも二つの〕内的感官も存在すると考えられていた。諸印象は、与えられるのではなく内的感官の特殊な働きによって創造されるのであった。第一に、共通感官が、外的感官によって伝えられる諸印象を結合する。第二に、アリストテレスもスコラ学者も、心象を変化させ新たな心象を産出する能力すなわち想像力を要請したが、これも生理学的機構によって行使される内的感官の特殊な働きであった。要するに、人間知性の働きは、伝統的見解では抽出extractionに制限され、〔共通感官の〕結合および〔想像力の〕再結合は感性に割り当てられていた。

注意。とはいえ就職論文でのカントは、感性を専ら直観的な能力とみなすまでには至っていない。感性は依然として促進的でもあり、感性によって伝えられた諸素材の結合は、伝統的所説のように、感性的で非知性的なプロセスとみなされていた。

*1:Notes on a Certain Program。分からず

*2:これはどういう前提に基づいた要請なのか。例えば、幾何学的性質が基本的であるということか、それとも必然的であるということだろうか。

*3:分からず。