Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ダイク「アイネイアースの議論:魂の人格性」『カントと合理的心理学』第5章(1)

  • Dyck, Corey W. “The Aeneas Argument: The Personality of the Soul” in Kant and Rational Psychology. New York: Oxford University Press (2014), 141-49.

第5章 アイネイアースの議論:魂の人格性

本章は三つの節に分かたれる。第1節では、魂の人格性についてのヴォルフの見解を提示する。これはロックの影響を受けつつも、人格性を、時間をまたいだ適当な同一性の維持によって解するのではなく、おのれ自身の同一性を意識する能力をもつ限りにおいて人間の魂に人格性の身分を与えるという点でロックから離れるものである。第2節では、ヴォルフ以後の人格性の論議を扱う。1770年代のカント自身による取扱いも、こうした伝統のうちに本来の位置をもつ。第3節では、カントが、第三誤謬推理で、魂の実体的同一性の推理に対してのみならず、ヴォルフ流の合理的心理学者が魂はおのれの数的同一性を意識している と想定した仕方に対しても反論してもいると論じる。

1 ヴォルフの合理的心理学における人格概念の定義と使用

[ロックとヴォルフの人格の定義。その共通点]

ロックは人格を「〔a〕理性と反省を有し、〔b〕自分を相異なる時と場所において同一の思考する存在者とみなすような、思考する知性的存在者」(『人間知性論』II, xxvii, 9; 335)と定義した。 ヴォルフはそれを「それに先立ってしかじかの状態であったものとまさに同じものであると意識するもの」(DM §924)とする。この定義は、〔b〕同一性の意識が人格性にとって本質的であるとする点でロックのそれと共通している。加えて、ヴォルフの枠組みでも、〔a〕相異なる時点におけるおのれの同一性の意識は、理性と反省を必要とする。

[ヴォルフの人格性理解の特性(1)スコラ的な実体連続性]

もっともヴォルフは、魂を人格とみなすことは、人格は「単一の生ける実体、それゆえ知性を与えられた〈下に置かれたもの〉(singular, living substance and so a suppositum endowed with an intellect)」であるとするスコラの主張と両立すると論じる(PR§741)。つまり、同一性の意識は、人格としての我々の同一性を構成するものではなく、むしろ我々の同一性――これは実体の連続性に存している――であるものの意識(contiousness of what is, in fact, our identity, where this identity is simply assumed to consist in the continuation of substance)である[にすぎない]。

[(2)不死性⇔〈魂の身体消滅後存続〉かつ〈判明な知覚(⇔自己同一性の意識)〉]

ヴォルフの概念の弁別的性格は、人格性の問題が取り上げられたのが、不死性の論議においであったという点にもある。単純な実体として、魂が破壊されうるのは瞬間的な無化(DM §922, TR§732)によってのみである。それゆえ魂は不壊的である*1。それゆえ身体と共に消滅することはない(PR§730)。神のごとき十分な力能のある存在者なら身体の死後に魂を無化しうるが、これには十分な理由がない (PR§744)。それゆえ魂は身体消滅後も存続する。

魂の存続に、判明な知覚を合わせると、不死性の十分条件となる。ヴォルフは予定調和説を支持しつつ、現世の曖昧で混雑した知覚が、身体の消滅後により明晰判明になることを疑う理由はほとんどないと結論する(DM§925, PR§745)。さらに、身体消滅後も判明な知覚を持ち続けるのであれば、魂はおのれ自身を意識し続けているのでなければならない。というのも、判明な知覚状態とおのれ自身の意識とは相互含意的だからである(PR§13)。加えて、身体消滅後に我々のもつ諸知覚が、身体的生活におけるそれらと何らか共通点をもつなら*2、後者は再生される。そして記憶によって、我々は我々がその知覚を以前にもっていたことを想起する(PE§173, 175)。それゆえ身体消滅後も魂は自らが同じ魂であり続けていることを意識し、人格性の条件を満たす(PR§746)。かくしてヴォルフは魂の不死性を結論する(PR§739, 747)。

*1:メンデルスゾーンによるこの種の議論に対してカントは、魂が度をもつことを論拠に反論する。

不壊性と不死性の区別はクレンメの指摘するところでもある。

*2:どういう共通点だろうか。

ファルケンシュタイン「時間の主観性」『カントの直観主義』第11章

  • Falkenstein, Lorne. Kant’s Intuitionism: A Commentary on the Transcendental Aesthetic. Toronto: University of Tronto Press (1995), 335-355.

第11章 カント、メンデルスゾーン、ランベルト、そして時間の主観性

[時間の主観性に対するメンデルスゾーンの反論。(a)主観(を物自体と解するなら、それ)は時(空)間のうちにあることになるが、これは物自体の非時空性に反する]

カントが就職論文で――物自体の不可知性を主張しはしなかったとはいえ――時間の主観性を主張した際、ランベルト、メンデルスゾーン、シュルツからそれに対する反論が寄せられた。メンデルスゾーンのそれは以下のとおりである。主観の内的状態は継起する。つまり表象は時間をまたいで変化する。その際、その表象を有している主観もまた変化する(表象Aをもつ状態から表象Bをもつ状態へと変化することなしには、表象Bは表象Aの後に現象するとはみなされえない)。つまり、主観自身が時間において規定されていなければならない。それゆえ、時間は心が表象するものの観念的特性にとどまらず、表象する心の実在的特性とみなされねばならない。かくして、問題が生じる。少なくとも一つの物自体(主観自体)が時間のうちにあるということは、[物自体の]非時空性テーゼに反するのではないか? また、もし心が時間のうちに実在するのであれば、なぜ他の物自体もそうでないのだろうか?(Ak,  X 115)

メンデルスゾーンは述べていないが、空間についてもこれとパラレルな議論が成立する。すなわち、表象は空間の相異なる位置に起こる。したがって、それらを表象する主観自体は、空間内の相異なる位置で起こる表象的状態の集まりから成っていればならない、と(344)。

これに対するカントの最初の(誤った)応答は、内官経験をもつ主観――メンデルスゾーンらの反論はこちらに向けられていた――を、主観の内官経験の対象と混同[した上で、後者が物自体であることを拒否]することに存していた。

[(b)主観が物自体ではなく現象であると解しても不合理に陥る]

表象する主観は物自体ではなく現象である、と反論できると思われるかもしれない。しかし、諸現象を有する主観が、自分の有する諸現象の一つであることは不合理である。人は、「経験的思考一般の要請」を援用して、そうした主観は、知覚された与件に基づいて推論ないし要請されるフェノメノンである、と主張するかもしれない。その場合、我々の理論においてのみ実在するものが、我々の理論を作るということになるが、同様にこれは不合理だろう。

[『批判』におけるカントの応答。現象/物自体の二観点の導入により、(a)を拒否し(b)を改良する。]

カントの応答はこうである。主観は、現象する通りの諸表象の観点からも、物自体としての諸表象の観点からも要請されることができる〔かくして、ジレンマの(a)の角を拒否し、(b)の角については、現象としての主観が同時に物自体であることを認めて不合理を除去することができる〕(A37-8/B53-5)。我々は主観を、時間をまたいで変化するものとして要請するが、これは現象としての主観にしか妥当しない〔(a)の拒否〕。したがってメンデルスゾーンの議論は全く妥当だが、現象としての主観についての結論しか導かず、物自体としての主観についてはそうではない。

注意。主観自体が諸直観を時空において受容するものと思われるように構成されているということは、何らかの未知なるもの(主観)が、我々の直観が時空的形式を示すように制約しているということを意味にすぎない。これは主観自体の認識を主張することではなく[、主観のあり方が、主観自体についてそう思われるようになぜかなっているということにすぎない]。

アメリクス「同一性」『カントの心の理論』第4章(1)

  • Ameriks, Karl. Kant’s Theory of Mind: An Analysis of the Paralogisms of Pure Reason, Oxford: Clarendon Press (2000), 128-131.

第4章 同一性

本章の前半部(A)では、第三誤謬推理におけるカントの立場は、通常考えられるよりも懐疑主義的であると論じる。筆者は、過度に合理主義的な解釈(例えばヘンリッヒ)および過度に経験主義的な解釈(例えばストローソン、ベネット)――これらの解釈によればカントは我々の自己同一性を確信していることになる――を退ける。

後半部(B)では、カントの議論の価値を、パーフィット、ペリー、シューメイカーらの極端な立場に対して擁護する。もっとも、カントの立場は時間に関する問題含みの見解と結びついているために完全に受け入れられるわけではない。

A1. 人格性:歴史的概観

[人格性の意味の変遷。自然主義と両立可能な叡知者としての人格から、実践/理論哲学への分岐。後者で時間性が導入された]

「人格性」に関して『批判』以前のカントは極めて異なった術語法を用いており、「人が人格であるかどうか」という問いと「人が叡知者であるかどうか」という問題とを等置する傾向にある。後者は、ただ人が一定の複雑な能力を有するかどうかということにかかわる。

最初期のカントは、こうした能力は自然主義的に解されうると考えた。自発性が人格の特徴的性格とされ、これは汎通的に規定的な世界と両立可能とされた(AA1, 402)。後にもしばしばカントは人格性を自発性に結びつけたが、最終的に彼は、本来自発性は絶対的でヌーメノン的な倫理的自由――これは実践的にのみ確立可能である――を指示するとした。他方理論的文脈にあって彼は、人格をたんに合理的存在者としてではなく記憶などによって特徴づけはじめた。

[時間性導入の理由。問題の発生と標的]

時間的性格を人格性の定義に導入することになった主要な理由は、人間の関心を公平に扱うことにあったと思われる。人間の関心は、魂のたんなる持続のみならず、思考の一定の連続性に向けられる(AA2, 338)。〔前者の積極的主張を拒否し、後者のそれの可能性を認めることになる。〕

カントはペーリッツ講義の時期ですら、再集された所与が自動的に知識を伝え、人格同一性を保証すると考えていた。人格同一性が問題になったのは、批判期に内官と統覚が区別され、内官が与件のたんなるコンベアーにすぎなくなり、それのみでは自己知のいかなる主張も正当化できなくなったためである。この場合誘惑的な代案は、たんなる統覚に基づいてアプリオリに人格同一性を主張するというものである。そしてこの代案こそが第三誤謬推理の標的である。

2. 第三誤謬推理

〔訳注をもって代える。〕

アメリクス「導入」「非物質性」『カントの心の理論』第1-2章(1)

  • Ameriks, Karl. Kant’s Theory of Mind: An Analysis of the Paralogisms of Pure Reason, Oxford: Clarendon Press (2000), 1-39.

第1章 導入

誤謬推理章を、カントの形而上学的体系のコンテクストに位置付け、かつ思想形成史をたどりながら解釈する。カントの心の理論の発展は四段階に大別される。順に、経験主義的、合理主義的、懐疑主義的、批判的段階と呼ばれよう。

第2章 非物質性

1 歴史的概観

[魂と物質的単純者はどう区別されるかという問題]

経験主義的段階では、魂は物質的実体から明白には区別されず、この時期のカントは唯物論の疑いに対処する必要があった。

合理主義的段階でカントは、魂は単純な非物質的実体であるという伝統的主張を受け入れた。この段階で困難が生じた。それは、カントが魂の非物質性はその単純性から帰結すると考え、かつ物質的世界は単純な要素から成ると論じたためである。ここから、単純な実体である魂は単純な物質的要素と同様に、すなわち不可入性の法則にしたがって空間内に存在するのかという問題が生じる(AA28, 145)。答えは不十分なものであった。

『夢』でカントは、非物質的実体と物質的実体の区別に関する懐疑主義を明言することになる。我々の魂はある意味では非物質的であると言われうるが、これはまた別の意味で(他のレベルで)我々が物質と異ならないという余地を残す。

ペーリッツの手に成る講義録には、(1)ノート前半部の合理主義的段階、(2)後半部の移行的段階、(3)批判期の講義によって再確認される最終的段階が含まれている。( (2)はおおよそ『夢』の立場に対応する。)

2 カントの講義録

[単純性と統一性論証]

合理主義的段階における魂の単純性の主張は、統一性論証に基づく。すなわち、私は別個の思考の統一性に気づいている。もし仮に諸思考が別個の実体に基づいているならば、そうした統一は不可能であろう。それゆえ私は単純な存在者である、と。この論証は後に第二誤謬推理論で取り上げられることになる。

[内官論証。それが非物質性の証明に不十分であること。その限界]

カントは当初、非物質性の主張に対して別個の根拠を与えていた。それを内官論証と呼ぼう。すなわち、私は外官の対象ではありえない、つまり私の心の諸要素――私の表象や感情――は拡がりをもつ分割可能なものとしては現象しえない。それゆえ非物質的である、と。反論が考えられる。物理的モナドのように、単純性に加えて不可入性をもつならば、我々の魂は物質的である、と。それを踏まえてカントは、魂はある意味で外官の対象である、すなわち物理的モナドと同様に、空間的実在性をもつ経験的世界の一部分である、あるいは少なくともそれと本質的に結びついているとする。

内官論証は高々現象的非唯物論――我々の魂は常に直接常に我々に非物質的に我々に現象する――しか証明しない*1フェノメノン的唯物論――魂はいかなる構成的な経験的意味においても物質的ではない――は証明されない。しかしカントは、これらの区別に十分には注意しなかった。

[移行期と批判期のポイント]

移行期のポイントは以下の三つに集約される。

  • (A1) 内官論証は、少なくとも現象的非唯物論が問題ないことを示す。
  • (A2) 統一性論証は、少なくとも科学的非唯物論――何が魂を構成しているかとは独立に、物質の構造や法則によって心を説明することには科学的価値がない――が問題ないことを示す〔後述〕。
  • (A3) しかし魂が少なくともフェノメノン的に非物質的であるということには、ただ理由(分割可能性論証に基づく)があるにすぎない

最終段階のポイントは以下の三つである。[分割可能性論証が加わることによってA1とA3が変化を被る。]

  • (B1) 分割可能性論証―――単純な物質的なものは存在しない――から、(統一性論証によれば単純な)魂は、明らかに少なくともフェノメノン的に非物質的である。
  • (B2) 魂は明らかに科学的に非物質的である。
  • (B3) しかし、魂が超越論的に非物質的である、すなわちその基体においても物質のそれと異なるということには、ただ理由があるにすぎない。

A3とB1は矛盾する。移行期においてA3が支持されていたのは、カントが非物質性のより究極的な意味〔超越論的なそれ〕に気づいていなかったからである。

3 現象的非唯物論と科学的非唯物論

科学的非唯物論の主張は、魂の本性、すなわちある種の統一を達成する能力が、唯物論を逃れるというものである。この主張は三つの前提に基づく。

(1)統一性論証は我々の思考が単純なフェノメノンを含むことを示す。(2)物質そのものはいかなる単純なものも構成しない(分割可能性論証)。(3)単純なものは何であれ単純でないものによっては説明されえない。

ここでは(2)をみておこう。カントは、物質的でありかつ物質の(広がりをもつ)部分でないアイテムが存在することを端的に拒否している(Ak28, 273)。分割可能性論証はこの拒否に立脚している。

*1: いや、(a)魂は単純性と不可入性をもつものとして現象している、(b)単純性と不可入性をもつものは物質的なものでありうる。(c)それゆえ魂は物質的でありうるものとして現象している、とも思われる。しかし、(b)は後に分割可能性論証によって否定されるので、そうした異議は成り立たないことになる。

たんなる興味の限界内の読書録

(今さら)読書の習慣をつけるべく、記録をつける。感想は本の内容から逸脱することが多々あると思う。本来記事の名に値するものではない。

(5/27) 山内志朗ライプニッツの影響――apperceptioをめぐって」『講座ドイツ観念論 1ドイツ観念論前史』弘文堂,1990年,67-122頁。

意識的表象(apperceptio)についてライプニッツの与えた影響は,ヴォルフへの影響,ヴォルフを介した影響,ヴォルフを介しない18世紀ドイツへの直接的影響という三つの局面に分けて整理しなければならない(70)と注意した上で,考察の中心が第一に置かれる。

ライプニッツは,ロック『人間知性論』の仏訳でperceptionと同義なものと意図されたapperceptionを深読みして,両者を分節化した(82)。後者の概念が『人間知性新論』で持ち出されたのは,微小表象(=意識的表象を欠いた表象(87))との対比においてである。微小表象が,モナドの内的状態にとどまらず,モナド間の結びつきを形成する機縁となるものである限り,それはデカルト的な外部/内部,現前/非現前の対立図式を脱却するために導入された概念である(90)。微小表象/意識的表象の対概念の眼目はその点にある(ibid.)。意識的表象を,表象を対象とする能力(ad-perceptio)に力点を置く仕方で理解したのは,むしろヴォルフだと見るべきである(108)。

尾崎盛景・稲田拓『ドイツ語練習問題3000題(改訂新版)』白水社,2002年。

(4/22)中島義道『カントの時間論』講談社学術文庫、2016年。

・観念論論駁の解釈はこうである。自己を時間のうちに規定するに先立って、外的対象を規定するものとして時間が登場していなければならない。つまり外的対象を秩序づける時間のうちに初めて自己を規定するのだ、と。

 注意。そこにおいて自己が(客観的先後関係において)規定される時間を形式としてもつ内官2は、外官とCoordination(ライニンガー)に立つ(72)。これとは別に、自己意識つまり知覚を伴う私の無規定的な現存在のレベルにおける内官1は、外官とSubordinationに立つ(78)。これらとは別に、運動する物体を秩序づけうる時間があり(96)、これは外官の形式としての時間3と呼ばれる(97)。

 これを踏まえれば、観念論論駁の主張は、内官形式としての時間2が、外官形式としての時間3を前提しているという主張を含むと言えよう。 また時間関係1を時間関係3に変形する可能性の根拠が超越論的時間規定である(図式論)(139)。

 ――しかし、内官1がなくても対象を構成することはできるのではあるまいか。そのような人が実際にいても文句は言えない(対象を認識していると認めざるを得ない)と思われる。無規定的な先後関係を持つことがなぜ対象認識の要件と言えるのか。

・自己触発の一例である注意(B156)とは外的世界の構成作用への注意に限定される(249)。 

・統覚の分析的同一が総合的統一を前提するとは、私の概念上の同一性に、我思うという実際の作用が先立たなければならないということである。この作用が先立つことによって、表象a にも b にも我思うが伴いうるのでなければならないということが帰結する(32)。

・伴いうる我思う=超越論的統覚が、経験・対象構成の条件(35)つまり超越論的総合(39)を含む場合、超越論的統覚と呼ばれる。

(4/2-15) 倉田剛『現代存在論講義 I ファンダメンタルズ』新曜社、2017年。

  • カルナップは、フレームワーク(言語体系)に対して外的な問いは、フレームワーク内の語の意味と規則から論理的・分析的・トリヴィアルに導き出されると主張した。対してクワインは、あらゆる真理について語の意味と世界の事実という二要素が責任をもつと主張した(75-79)。
  • 普遍者(≒イデア)とは、繰り返し例化(≒分有)されうるものである(108)。
  • 性質実在論の論拠1。性質にコミットしない場合、例えば同じ性質をもつという文のパラフレーズが、無限の選言肢を含むことになる。2.偶然的な規則性から法則的な規則性をすることは、個別者間の関係から性質間の関係を区別することに存する(115-17)。
  • 否定的性質への反論。1. 類似性を持たない対象間に類似点を見出すことになる。2. 性質の数がアプリオリに同数になる。3.  当の性質は因果的力能を持たない(121-27)。
  • 2階の性質を 1階の述語定項とすると、1階の性質をもつ対象に2階の性質を述定する推論において、1階の性質が大前提において性質、小前提において個体とみなされることになってしまう(媒概念曖昧の虚偽)(135)。
  • クラス唯名論(性質をその外延と解する)への反論。1.例化されていない性質が同じ性質となる(空集合の問題)。2.共外延的な性質。可能的個体を外延に含めてこれらを区別すると、性質の存在を否認する代償として可能的個体に訴えることになる(たまたまの一致の問題)(140-44)。
  • truthmaker理論(命題を真にしている何かが世界に存在する)において「aは Fである」のTMは、aのFトロープ(e.g. ジョニーデップのほほえみ)である(163)。

I. カント『実践理性批判波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、1979年。

  • 第一批判で扱われた三つの理念のうち、自由が特権的な役割を持つことが強調される。神および不死は、自由の理念を媒介にしてのみ最高善の条件として要請される(16, 215)。
  • エピクロス派は徳を幸福化し、ストア派は幸福を徳化したといえよう。これに対してカントは、徳と幸福が最高善を形成する異種的な要素であることを強調する(228ff.)。
  • 心の死後存続は、最高善において道徳的法則と一致するための必要な要請である(265)。 

飯田隆言語哲学大全 IV  真理と意味』勁草書房、2002年。

  • 4・5章が枢要部だが、特に5章はほとんど追えず。
  • タイプ/トークン。時空的位置を持たない抽象的対象/それを持つ具体的対象(15)。
  • 対象言語/メタ言語の区別と言及的表現――たとえば「花子」――を含まない言語/含む言語の区別の違い。メタ言語が言及的表現を含むということもその逆も偽である。前者については花子を Aと命名することを、後者については引用を考えよ(119)。
  • 以下第6章。存在論的コミットメントの基準は、存在の定義でも、何が存在するかを教えるものでもない。任意の理論が与えられたときに、その理論によれば何が存在するとされるかも教えるものである(386)。
  • デイヴィドソンの概念枠論文の批判の対象は、概念的に無垢な内容と概念的枠組みとの区別(経験主義の第三のドグマ)であり、その帰結たる概念相対主義である(403)。
  • デイヴィドソン形而上学における真理の方法」での議論。全知の解釈者の信念と我々の信念とは大体において一致する。というのも全知の解釈者もまた我々と同様の仕方でわれわれを解釈し――飯田によればこの点が誤り(412)――その際に寛容の原則を用いねばならならず、それゆえ真偽評価に大きな違いはないという前提が取られねばならないからである。

I. カント「1765-66年冬学期講義計画公告」「視霊者の夢」「空間における方位の区別の第一根拠について」『カント全集3』岩波書店、2001年。

  • 「夢」。霊魂についての仮説およびその批判が、第一部では理論的に、第二部ではスウェーデンボリの著書にそくして述べられる。
  • 霊魂は単純な実体である。これは一方で空間を占有し(空間において活動的であり)、他方で空間を満たさない。後者の点で単純な物質的実体から区別されていると思われる(Vgl. AkII, 324)。
  • 魂の場所は「その変化がすなわち私の変化であるような物体、つまり私の身体」(Ak324)である。その逆ではない。ここでは魂の場所が時間変化を介して規定されている。他方外的対象の位置がどのように規定されるかが見られねばならない。
  • カントが魂と身体の交互作用に不可解さを表明するのは、両者の間には圧力や衝突が見られないからである。すなわち、魂の占めている同じ空間に物体的事物が存在しても圧力や衝突が生じない(Ak, 327)。
  • 魂同士の交互作用の成立するところでは、時空的隔たりが消滅すると考えられている (Ak,  332)。
  • ヘラクレイトスは言った。我々は目覚めている時には共通の世界を、夢を見ている時には各々別個の世界を持つと(Vgl. Ak, 342)。ある意味では反対のことが言えるかもしれない。夢を見ている時には共通の世界を・それゆえにこの世界を構成できないが、目覚めている時にはできると。
  • 視霊者は想像力の幻影を外的対象と化す(カントはこれに対して生理学的説明を試みている AK 344)。我々は他者を第一に外的対象として考慮する(第三誤謬推理)。両者には構成の順序の違いがある。幻影→外的対象。外的対象→他者の時間。前者が成功すると――スウェーデンボリによるところ――その霊魂の内的状態の変化は場所の変化として表象されることになる(AK365)。
  • 「方位論文」。なぜカントは方位の区別の第一根拠が身体における上下左右の区別であると論じたにも関わらずその区別自身を絶対空間に関わるものと論定したのか(AK 383)。

(4/1) 中島義道『カントの自我論』日本評論社、2004年。

  • 中島によれば、内的経験とは、過去の出来事の想起に基づく私の過去系列の構成である(262)。しかし、内的経験のミニマムな解釈としては、一旦その出来事を意識するのをやめてから再び想起するということは必要ではない。例えば、水が凝固するという外的経験に際して、水が液体から固体に変化しつつあるように思われるということだけで内的経験にとっては十分である。つまり、どんなに短い外的経験でも継起的である限り、それを私が・しかじかの状態を保って経験していることを自覚しさえすれば十分に内的経験になるだろう。
  • 第三誤謬推理における外的観察者の意義とは何か。Kitscher(197)の示唆するように、自己同一性は他者によって判定されえない(間主観的でない)という理由で認められないということをイラストレートするためだとしよう。中島(2004, 260)の指摘するように、内的経験とは、その対象を空間的に位置づけることのできないような経験である。それゆえ間主観的ではない(対して、例えばC線維刺激なら、空間的に位置づけることができ間主観的である)。このことから生じる問題を二通りに表現できる。第一に、自己同一性の認識と称されるものは明らかに外的経験と想定されてはいないのだから、その批判に間主観的観点をもち出すのは見当違いとなる。第二に、もし第三誤謬推理批判が成立するのだとすれば、内的経験一般の存立すら批判されることになってしまう。――しかし、キッチャーの解釈ではもしかすると内的経験は間主観的なのかもしれない。
  • 他者の内的経験を自己の内的経験とは非対称な仕方で構成すること(275-)はカントの関心の反対をゆくことではあるまいか。むしろ対称的に構成すること、つまり自己の内的経験を論じることが同時に他者の内的経験を論じることであることこそがカントのとった態度のように思われる。そうであれば中島の解釈の方針(超越論的独我論)に反することになる(14)。

八幡英幸「カントにおける自己直観・自発性・現実性――形而上学講義L1から『純粋理性批判』へ――」『現代カント研究 8 自我の探究』晃洋書房、2001年、69-91頁。

  • 形而上学講義で内官が感官に算入されていなかったことは、内官と統覚の区別がされていなかったことと対応している。〔区別がされなかったことは、認識主観と認識対象の未区別を表し、それゆえ直観を受容する感官としての役割が与えられなかったことを意味する。〕
  • 形而上学講義から批判への移行は、第一に自由の問題がアンチノミーへと移動され、自我が純粋に理論的な問題として捉え直された、すなわち認識の対象として捉え直されたことが、統覚と内官の区別を促し誤謬推理批判を与えた。
  • 〔内的経験の形式を時間に据えたのは、内官と統覚の区別があってのことなのか否か。仮にあってのことだとすると、講義から『批判』への移行に、内的経験の存する位置――それが空間的でないのは講義の段階でもしかり――に時間的という特有の位置を与えることが可能になったといえるかもしれない。〕
  • 誤謬推理批判が登場するのは R5553 (Ak18: 221-9)1778-9年頃。
  • 講義におけるコギト直観説は、統覚と内官の区別によって直接的な自己直観の基盤が失われ、推論説へと移行した。
  • 1775から6年のFriedlaenderによる講義録では、自己意識と区別されない内官の働きが、人格性に基礎を与えるとされる(Ak25: 492)。
  • 〔 Consciousness is the intuition of oneself. It would not be consciousness if it were sensation. All cognition, whatever it might concern, lies in it. If I abstract from all sensations, I presuppose consciousness. It is logical, not practical personality.(R5049. 1776–78. M XXXVIII)
  • Time is the form of consciousness, i.e., the condition under which alone we can become conscious of things. (R5317. 1776–78?)〕

(3/25) カント『プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ』土岐邦夫ほか訳、中公クラシックス、2005年。

  • プロレゴーメナ。26節。感覚は時空の部分を占めないが、感覚は時間において生じうると言われる(内包量)。ここには、一方で、直観が継起を要求するという所説(A版演繹)に共通する側面が、他方で、内的経験の形式が時間であるということに通じる側面があると思われる。
  • 基礎づけ。基礎づけ→実践理性批判(人倫の形而上学の基礎)→人倫の形而上学という順で議論が連続している。本書では、実践理性批判で演繹される定言命法の定式が、演繹されはしないものの、唯一可能な形式であると言われる(303)。

(3/18) イマヌエル・カント純粋理性批判 下』原佑訳、平凡社ライブラリー、2005年。

  • 超越論的方法論。哲学とは何かということが主題(の一つ)。特に第一編第一章ではそれが数学との対比において、第二編第三章ではその内的分類に関して論じられる。第一篇第一章。数学は概念の構成(概念の直観における描出)に関心する。構成は、純粋直観における構像(Einbildung)によって、あるいは経験的直観における描出によってなされる。代数学でも、数学的操作を記号を頼りに描出すると言われる(A717/B745,  A734/B762)。
  • 第二篇第三章。形而上学は特定の対象に携わることでによってではなく、特定の認識源泉に携わることによって限界づけられる(A844/B872)。悟性の原則なら分析論、理性の原理なら弁証論、等。
  • 目的と生起すべきこととの関係。まず目的があるということが知られ、そのために生起すべきことが分かるという順ではなく、まず生起すべきことがあり、それゆえに目的があるという順に推論がなされる(A806/B834)。
  • 中島(2000)は自由論を超越論的自由を他者からの自由とも解釈している。しかしカントにとってはやはり、自分自身ならびに他者の自由を保証することが関心事だったと思われる(A807/B836)。
  • 神と来世がなければどんな道徳的法則であれ、やる気にはならない(!)(A813/B841)。
  • プロレゴメナでは、客観的妥当性と普遍的妥当性が交換概念であると言われる。普遍的妥当性から客観的妥当性が推測されるのは、諸主観には差異がある以上、その一致の根拠を客観に求めるのがもっともらしいからである(A821/B849)。
  • 人間学が経験的心理学と同定されているように見える(A849/)。この人間学は書籍化されたそれだろうか。
  • 経験の可能性の条件という観念は超越論的観念論(我々の認識の対象は物自体ではなく現象にすぎないという理説)のコロラリーである。なぜなら、超越論的実在論(我々の認識の対象は物自体である)と仮定しよう。その場合、認識は対象に依存するかしないかのいずれかである。依存するとすればそれは経験の対象の認識にすぎない。しないとすれば対象との連関をもたない空虚な認識にすぎない。したがって超越論的実在論なら経験の可能性の条件という観念はありえない。要するに経験を可能にするという側面の入る余地がない。経験は物自体=現象によって可能にされるにすぎない。そうした観念は超越論的観念論に特有なものである。(Vgl. Ak23, 20)。
  • 外的直観のみならず内的直観もまた外延量をもつ。例えば愉快だったということは、その愉快さを感じていただけの時間の長さという外延量をもつ(Ak23, 29)。他方、思惟する実体としての魂は外延量をもたない(Ak23, 31)。前者なら愉快であった時間を時計で測ることができるが、後者の場合はできない。私がそう認知していなくても実は異なる実体を転移している可能性がある(第三誤謬推理)。したがって魂の持続する時間を時計で測ることはできない。なぜなら、私が同じ私だと感じていようとも異なる実体を転移している可能性があり、また同じ私だと感じていなかろうと同じ実体に留まっている可能性があり、要するに同じ私だという自覚は(それゆえその自覚の持続を時計で測ることも)実体の持続の徴表にならないからである。

(3/12) ロビン・レ・ペドヴィン『時間と空間をめぐる12の謎』 植村恒一郎他訳、岩波書店、2012年。

  • 二次元の空間から三次元のそれへの拡張と類比的に、三次元から四次元への拡張が可能であるとしたらそれはどういうことか。それは第四次元として時間が加わることとどう違うか。 (cf. p. 319)
  • アリストテレス『自然学』を読む。