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哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ファルケンシュタイン「導入」「直観と悟性の区別」『カントの直観主義』第1章

  • Falkenstein, Lorne. Kant’s Intuitionism: A Commentary on the Transcendental Aesthetic. Toronto: University of Tronto Press (1995), 3-47.

(5/1更新)

導入

[われわれの基本的立場]

空間についてのカントの生得説は、構成主義的というよりむしろ直観主義的である。つまり、空間は何らかの認識的活動を通じて能動的に構成されるのではなく、我々の第一の最も原始的な経験において認識的システムによって受動的に受容される。これに反して、近年の多くの解釈者たちは、空間を知的活動――例えば総合――によって初めて構成されるものと解した。これが誤りなのは、A15-6/B29-30からも見て取れることだが(26)。

我々は空間の構成主義的解釈に反論するに際して、次のことを要請する:カントにとって生まの与件は構造的に複合的である。すなわち時空において配置された物質の配列からなる。そして後に示されるように、感官に根源的に与えられた所与は、場所においてのみならず内包量においても異なる、と。

[生得説/経験説。直観主義/構成主義]

一般に生得説/経験説の区別は、経験の役割に関わる。〈感覚がインプットを与え、知識の主張ないし命題的態度がアウトプットをなす情報処理装置〉を心のモデルとして考えよう。当の区別の基準はこうなる。(1)あらゆるインプットが感官経験から来るか否か。(2)あらゆる処理は過去の経験から学ばれるか否か。(1)を拒否したのはデカルト *1プラトン、トマスリード。支持したのはロック、ヒューム、アリストテレスである。(2)を拒否したのはデカルト『屈折光学』。支持したのはバークリであった。

直観主義/構成主義の区別は、認識における処理の役割に関わる。直観主義は、一定のアウトプットがすでにインプットに含まれていると考える。感覚的インプットについてこう考える論者は感覚主義的直観主義者と呼ばれる(e.g. アリストテレス『デ・アニマ』II, vii)。 その他のインプットについてそう主張する論者は、非感覚主義的直観主義者と呼ばれる(プラトンデカルト『屈折光学』、リード)。他方、アウトプットはインプットに含まれていないと考えるのは構成主義者であり、バークリやリードがこれに含まれる。

[形式的直観主義]

非感覚主義的な直観主義者でありかつ経験主義者である論者が、哲学史上二人だけ(12)存在した。この立場は形式――そこにおいてアイテムが受容される秩序のこと――的直観主義と呼ばれる。これは、我々は時空的諸規定についての感覚を持っているとする感覚主義〔的直観主義〕からも、時空的関係の知識はあらゆる経験に先立って心に現前しているとする生得観念の生得説〔特に非感覚主義的な構成主義〕からも区別されねばならない。この立場は、問題の形式が感官経験を通じてのみ与えられるとするか、ある種の生得的特性に基づくとみなすかという、経験説的あるいは生得説的な変種をもつ。前者がヒューム『人間本性論』(1, 2, 3)、後者がカントである。

[形式的直観主義が無視されてきた理由]

カントの形式的直観主義が無視されてきたのは、カントの直観を構想力の総合の所産とみなす、つまり構成主義的に解することによってであった。しかし直観は思考および構想力の総合によってもたらされる表象から別個のものと見なされねばならない。

第一部 カントの表象に関する術語法(超越論的感性論§1)

第一章 直観と悟性の区別

感性/悟性の区別は、アリストテレスによるアイステーシス/ヌースの区別にまでさかのぼる(『デ・アニマ』427, d7-15. Vgl. A21n/B35n)。「大いなる光」が与えられた直後の仕事である1770年の就職論文で、カントは感性的/知性的な認識的機能を鋭く区別することによって、スコラ的な二能力的説明を再導入した。これによって一連の形而上学的問題を解決できると彼は考えたのである。

[背景の説明。概念の構成への訴えは、ライプニッツのプログラムとも、ライプニッツ/ニュートンの空間の理説とも相容れない。]

さかのぼること1764年の懸賞論文で、既にカントは〈そこにおいて証明が基本的定義から同一律矛盾律のみに訴えることによって引き出される純粋に公理的な数学〉は不可能であると確信していた。代わりに彼は、数学的命題の明証性を証明するためには「構成」に頼ることが必要だと考えた(AkII, 278-9, 291)。このことは、あらゆる知識を純粋に論理的な計算に還元するライプニッツの合理主義的プログラムへの確信を揺るがしたであろう。

同じ時期にカントは、空間の存在論的身分をめぐるライプニッツニュートンの論争に苦心していた。[カント的には、]幾何学において図形を描出することに訴えることの必要性が示すように、空間はそれ以上原始的なものに還元することはできず*2、それゆえ、それ自身である種の実在性を持たねばならない。このことは〈空間的関係はモナド的実体の内的属性の混雑した知覚にすぎない〉というライプニッツの立場に不利に作用する。しかし他方、ニュートンの理説には、実在的・積極的性質を欠いた空虚な空間に何らかの実在性を帰属するという概念上の不合理と、絶対的時空は神性に対抗するという神学的困難*3とがあった。

[カントが理論的に受け継いだもの。アリストテレス的二能力説。個別者の受容と普遍者の抽出]

アリストテレス的伝統によれば、低次の認識能力すなわちアイステーシスは、生理学的なものである。すなわち、感覚する働きは、知覚者の身体における特定の器官によってなされる。こうした器官は、その質料に外的対象の形相が刻印されうるものである。(その刻印の所産は、心象phantasmないし感性的形象sensible speciesと呼ばれる。) 外的対象の形相はこうして、感覚器官の質料と外的質料とにおいて同時に実在する。

他方、〈感性によってもたらされた個別者〉から普遍者を引き出すという仕事は、生理学的機構――これはたかだか質料的心象を分割ないし結合して、他の質料的形象を産出するにすぎない――によっては果たされない。したがって、第二の・高次の認識的機能、すなわち心ないし知性の機能が要求される。

[伝統的二能力説からの逸脱。(1)現象/物自体の区別との呼応 (2)感覚与件の不要性 (3)直観的/論弁的の区別との対応]

就職論文におけるカントの二能力の区別は、感性を生理学的な能力、知性を精神的なそれとみなす限りにおいて、また感性を通じて認識される対象を個別者、知性を通じて認識される対象を普遍者とみなしている限りにおいて伝統的である。

対して非伝統的な要素の第一は、感性は諸物を現象する通りにしか表象せず、他方知性を通じて我々はそれらをあるがままに認識する(§4)というものである。

第二の逸脱は、知性の「実在的使用」(§5)の要請に関わる。中世のアリストテレス的伝統では、感性を通じて与えられていない何ものも、知性に現前しえない。他方カントによれば、知性は――感覚与件から抽象するのではなくむしろ感覚与件を捨象することによって――感性に依存することなく物自体の知識を与えうる。

第三に、感性/知性の区別が、直観的/論弁的の区別に対応させられる。a. あらゆる直観的認識は感性に帰属される。これは、プラトンアウグスティヌス的伝統の照明説を引き合いに出すまでもなく、経験主義的スコラ的伝統――知性における普遍者の現存は、感性による知性の触発の直接的所産であるとする〔つまり間接的直観といえよう〕――にさえ反している。

b. 逆に、感性はもっぱら直観的な能力となる。伝統によればそうではなかった。外的感官に加えて促進的facilitativeないし産出的な〔つまり非直観的な・少なくとも二つの〕内的感官も存在すると考えられていた。諸印象は、与えられるのではなく内的感官の特殊な働きによって創造されるのであった。第一に、共通感官が、外的感官によって伝えられる諸印象を結合する。第二に、アリストテレスもスコラ学者も、心象を変化させ新たな心象を産出する能力すなわち想像力を要請したが、これも生理学的機構によって行使される内的感官の特殊な働きであった。要するに、人間知性の働きは、伝統的見解では抽出extractionに制限され、〔共通感官の〕結合および〔想像力の〕再結合は感性に割り当てられていた。

注意。とはいえ就職論文でのカントは、感性を専ら直観的な能力とみなすまでには至っていない。感性は依然として促進的でもあり、感性によって伝えられた諸素材の結合は、伝統的所説のように、感性的で非知性的なプロセスとみなされていた。

*1:Notes on a Certain Program。分からず

*2:これはどういう前提に基づいた要請なのか。例えば、幾何学的性質が基本的であるということか、それとも必然的であるということだろうか。

*3:分からず。