Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ファルケンシュタイン「時間の主観性」『カントの直観主義』第11章

  • Falkenstein, Lorne. Kant’s Intuitionism: A Commentary on the Transcendental Aesthetic. Toronto: University of Tronto Press (1995), 335-355.

第11章 カント、メンデルスゾーン、ランベルト、そして時間の主観性

[時間の主観性に対するメンデルスゾーンの反論。(a)主観(を物自体と解するなら、それ)は時(空)間のうちにあることになるが、これは物自体の非時空性に反する]

カントが就職論文で――物自体の不可知性を主張しはしなかったとはいえ――時間の主観性を主張した際、ランベルト、メンデルスゾーン、シュルツからそれに対する反論が寄せられた。メンデルスゾーンのそれは以下のとおりである。主観の内的状態は継起する。つまり表象は時間をまたいで変化する。その際、その表象を有している主観もまた変化する(表象Aをもつ状態から表象Bをもつ状態へと変化することなしには、表象Bは表象Aの後に現象するとはみなされえない)。つまり、主観自身が時間において規定されていなければならない。それゆえ、時間は心が表象するものの観念的特性にとどまらず、表象する心の実在的特性とみなされねばならない。かくして、問題が生じる。少なくとも一つの物自体(主観自体)が時間のうちにあるということは、[物自体の]非時空性テーゼに反するのではないか? また、もし心が時間のうちに実在するのであれば、なぜ他の物自体もそうでないのだろうか?(Ak,  X 115)

メンデルスゾーンは述べていないが、空間についてもこれとパラレルな議論が成立する。すなわち、表象は空間の相異なる位置に起こる。したがって、それらを表象する主観自体は、空間内の相異なる位置で起こる表象的状態の集まりから成っていればならない、と(344)。

これに対するカントの最初の(誤った)応答は、内官経験をもつ主観――メンデルスゾーンらの反論はこちらに向けられていた――を、主観の内官経験の対象と混同[した上で、後者が物自体であることを拒否]することに存していた。

[(b)主観が物自体ではなく現象であると解しても不合理に陥る]

表象する主観は物自体ではなく現象である、と反論できると思われるかもしれない。しかし、諸現象を有する主観が、自分の有する諸現象の一つであることは不合理である。人は、「経験的思考一般の要請」を援用して、そうした主観は、知覚された与件に基づいて推論ないし要請されるフェノメノンである、と主張するかもしれない。その場合、我々の理論においてのみ実在するものが、我々の理論を作るということになるが、同様にこれは不合理だろう。

[『批判』におけるカントの応答。現象/物自体の二観点の導入により、(a)を拒否し(b)を改良する。]

カントの応答はこうである。主観は、現象する通りの諸表象の観点からも、物自体としての諸表象の観点からも要請されることができる〔かくして、ジレンマの(a)の角を拒否し、(b)の角については、現象としての主観が同時に物自体であることを認めて不合理を除去することができる〕(A37-8/B53-5)。我々は主観を、時間をまたいで変化するものとして要請するが、これは現象としての主観にしか妥当しない〔(a)の拒否〕。したがってメンデルスゾーンの議論は全く妥当だが、現象としての主観についての結論しか導かず、物自体としての主観についてはそうではない。

注意。主観自体が諸直観を時空において受容するものと思われるように構成されているということは、何らかの未知なるもの(主観)が、我々の直観が時空的形式を示すように制約しているということを意味にすぎない。これは主観自体の認識を主張することではなく[、主観のあり方が、主観自体についてそう思われるようになぜかなっているということにすぎない]。