Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アメリクス「導入」「非物質性」『カントの心の理論』第1-2章(1)

  • Ameriks, Karl. Kant’s Theory of Mind: An Analysis of the Paralogisms of Pure Reason, Oxford: Clarendon Press (2000), 1-39.

第1章 導入

誤謬推理章を、カントの形而上学的体系のコンテクストに位置付け、かつ思想形成史をたどりながら解釈する。カントの心の理論の発展は四段階に大別される。順に、経験主義的、合理主義的、懐疑主義的、批判的段階と呼ばれよう。

第2章 非物質性

1 歴史的概観

[魂と物質的単純者はどう区別されるかという問題]

経験主義的段階では、魂は物質的実体から明白には区別されず、この時期のカントは唯物論の疑いに対処する必要があった。

合理主義的段階でカントは、魂は単純な非物質的実体であるという伝統的主張を受け入れた。この段階で困難が生じた。それは、カントが魂の非物質性はその単純性から帰結すると考え、かつ物質的世界は単純な要素から成ると論じたためである。ここから、単純な実体である魂は単純な物質的要素と同様に、すなわち不可入性の法則にしたがって空間内に存在するのかという問題が生じる(AA28, 145)。答えは不十分なものであった。

『夢』でカントは、非物質的実体と物質的実体の区別に関する懐疑主義を明言することになる。我々の魂はある意味では非物質的であると言われうるが、これはまた別の意味で(他のレベルで)我々が物質と異ならないという余地を残す。

ペーリッツの手に成る講義録には、(1)ノート前半部の合理主義的段階、(2)後半部の移行的段階、(3)批判期の講義によって再確認される最終的段階が含まれている。( (2)はおおよそ『夢』の立場に対応する。)

2 カントの講義録

[単純性と統一性論証]

合理主義的段階における魂の単純性の主張は、統一性論証に基づく。すなわち、私は別個の思考の統一性に気づいている。もし仮に諸思考が別個の実体に基づいているならば、そうした統一は不可能であろう。それゆえ私は単純な存在者である、と。この論証は後に第二誤謬推理論で取り上げられることになる。

[内官論証。それが非物質性の証明に不十分であること。その限界]

カントは当初、非物質性の主張に対して別個の根拠を与えていた。それを内官論証と呼ぼう。すなわち、私は外官の対象ではありえない、つまり私の心の諸要素――私の表象や感情――は拡がりをもつ分割可能なものとしては現象しえない。それゆえ非物質的である、と。反論が考えられる。物理的モナドのように、単純性に加えて不可入性をもつならば、我々の魂は物質的である、と。それを踏まえてカントは、魂はある意味で外官の対象である、すなわち物理的モナドと同様に、空間的実在性をもつ経験的世界の一部分である、あるいは少なくともそれと本質的に結びついているとする。

内官論証は高々現象的非唯物論――我々の魂は常に直接常に我々に非物質的に我々に現象する――しか証明しない*1フェノメノン的唯物論――魂はいかなる構成的な経験的意味においても物質的ではない――は証明されない。しかしカントは、これらの区別に十分には注意しなかった。

[移行期と批判期のポイント]

移行期のポイントは以下の三つに集約される。

  • (A1) 内官論証は、少なくとも現象的非唯物論が問題ないことを示す。
  • (A2) 統一性論証は、少なくとも科学的非唯物論――何が魂を構成しているかとは独立に、物質の構造や法則によって心を説明することには科学的価値がない――が問題ないことを示す〔後述〕。
  • (A3) しかし魂が少なくともフェノメノン的に非物質的であるということには、ただ理由(分割可能性論証に基づく)があるにすぎない

最終段階のポイントは以下の三つである。[分割可能性論証が加わることによってA1とA3が変化を被る。]

  • (B1) 分割可能性論証―――単純な物質的なものは存在しない――から、(統一性論証によれば単純な)魂は、明らかに少なくともフェノメノン的に非物質的である。
  • (B2) 魂は明らかに科学的に非物質的である。
  • (B3) しかし、魂が超越論的に非物質的である、すなわちその基体においても物質のそれと異なるということには、ただ理由があるにすぎない。

A3とB1は矛盾する。移行期においてA3が支持されていたのは、カントが非物質性のより究極的な意味〔超越論的なそれ〕に気づいていなかったからである。

3 現象的非唯物論と科学的非唯物論

科学的非唯物論の主張は、魂の本性、すなわちある種の統一を達成する能力が、唯物論を逃れるというものである。この主張は三つの前提に基づく。

(1)統一性論証は我々の思考が単純なフェノメノンを含むことを示す。(2)物質そのものはいかなる単純なものも構成しない(分割可能性論証)。(3)単純なものは何であれ単純でないものによっては説明されえない。

ここでは(2)をみておこう。カントは、物質的でありかつ物質の(広がりをもつ)部分でないアイテムが存在することを端的に拒否している(Ak28, 273)。分割可能性論証はこの拒否に立脚している。

*1: いや、(a)魂は単純性と不可入性をもつものとして現象している、(b)単純性と不可入性をもつものは物質的なものでありうる。(c)それゆえ魂は物質的でありうるものとして現象している、とも思われる。しかし、(b)は後に分割可能性論証によって否定されるので、そうした異議は成り立たないことになる。