Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「人間の認識の知性的条件:カントの形而上学的演繹」(2)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第6章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 142-156).

しかし以上のことはカントの三分法の証明(ないし体系的説明にすら)あたらない。ここでヒントになるのは『第三批判』序論の注(197n)である。そこでカントは、総合的区分が基づく原理は総合的統一の条件であると述べている。なぜか? それは、区分が完全でなければならず、これは選言肢が総合的統一を構成することを要求するからであると思われる。かくして、(1)条件、(2)条件付けられたものに加えて(3)両者の「媒介者」がなければならない。

II 判断の形式と機能

判断の論理的形式からカテゴリーを導出することに対する批判に答えたい。すなわち、現代の論理形式はカントのそれの代替物とはみなされえない。それゆえカント自身のプロジェクトの実行可能性を侵食しえない。カントが「判断の形式」によって解しているのは〈心的活動としての判断作用〉の形式であって、〈この活動から結果する判断〉の形式ではない。

III 「本来の」形而上学的演繹:一般論理学から超越論的論理学へ

形而上学的演繹は、悟性の論理的使用と実在的使用との同型性に立脚している。すなわち、判断における悟性使用(そこにおいて悟性は与えられた諸表象を諸概念のもとへもたらすことによって結合する)と、感性的直観を規定する際の悟性使用(それに際して悟性は思考の規定的内容を産出する)との同型性がそれである。

[形而上学的演繹と超越論的演繹との間に循環はない]

こう思われるかもしれない。しかし実在的ないし超越論的使用 想像力と悟性が実在的ないし超越論的使用――これは超越論的論理学の主題である―― をもっているということは未証明である。つまり、形而上学的演繹は超越論的演繹の結果を前提しており、そしてその逆も真である。とするとこれは循環ではないのか?

否。カントは形而上学的演繹において、もし悟性が実在的ないし超越論的機能をもつならば――すなわちもし超越論的論理学が存在するのであれば――我々はその純粋概念ないしカテゴリーが、〈一般論理学において分析される、判断の活動において働いている論理的機能〉に対応する、と論じているのである。(A→B) [そして超越論的演繹は A を証明するのであるからここには循環は存在しない。]

[形而上学的演繹の解釈]

一つの判断において様々な表象に統一を与えるのと同じ機能が、{一つの直観における様々な表象}の単なる総合にも統一を与えるのであって、この機能は、一般的に表現されるなら、純粋悟性概念と呼ばれる。したがって、同じ悟性が、その上、〈それを通じて悟性が諸概念のうちに、分析的統一によって、一つの判断の論理的形式を成就したのとまさに同じ働き〉によって、直観一般における多様の総合的統一によって、悟性の表象のうちに、一つの超越論的内容をももたらす,それゆえこの働きは純粋悟性概念とも呼ばれ、この概念はア・プリオリに客観と関わるが、この[ような概念を取り扱う]ことを、一般論理学はなしleistenえない。 (A79/)

[第一部分の解釈]

まず、「〈それを通じて悟性が諸概念のうちに、分析的統一によって、一つの判断の論理的形式を成就」するという部分を解釈しよう。第一に、「分析的統一」とは判断において統一された諸概念を指示している。第二に、諸概念が分析的統一であるのは、概念が単一の表象(e. g. 物体)において、諸対象に付属する一連の徴表(e. g. 形態、拡がり、不可入性……)を一体化しているからである。第三に、「判断の論理的形式」とは、一定の論理的形式をもつ判断*1を意味する。

まとめよう。分析的統一によって悟性が判断の論理的形式を諸概念のうちにもたらすとは、単に、〈悟性が、特定の論理的形式をもつ判断を、その諸概念(諸分析的統一)を一定の仕方で結びつけることによって産出する〉ということに他ならない。個性が判断を産出する限りでそれは判断の形式を産出するのである。そしてそれらを完全に特定したのが論理的機能の表に他ならない。

[第二部分の解釈]

次に、「同じ悟性が……直観一般における多様の総合的統一によって、悟性の表象のうちに、一つの超越論的内容をももたらす」の部分を解釈しよう。第一に、「超越論的内容」とは多様の総合的統一を意味する。厳密に言えば超越論的内容とは、一般論理学を外れたものである。すなわち対象との連関を含むものである。超越論的演繹で明らかになることだが、諸カテゴリーによって引き起こされる総合的統一とは、対象一般の思考の形式にほかならない。したがって悟性がそうした総合的統一を産出する限り、悟性はその諸表象を対象に連関づける、すなわち超越論的内容をもたらすのである。この総合的統一の規定は判断の論弁的活動と同型であるから、悟性は二つのレベルで起きている一つの統一化の働きに従事しているということになる。第二に、「直観一般」とは悟性の超越論的なあるいは客観化する働きが直観の多様の特殊な性状から独立であることを示さんとしている。

[説明を補って当該箇所を再掲しておこう。「同じ悟性が……直観一般における多様の総合的統一[作用]によって、悟性の表象のうちに、一つの超越論的内容〔=総合的統一体〕をももたらす」]

[形而上学的演繹からの帰結]

さて、悟性がそうした機能を持ち、その機能を、判断するのと同じ働きを通じて行使するということを仮定しよう。ここから、判断の論理的機能――これは、それにしたがって悟性が判断において諸概念を結合する形式である――とは、判断へ向けて対象を規定するために直観の多様を結合する形式にほかならないということが帰結する〔同じ働き→同じ形式〕。要するに、必要不可欠な超越論的内容をもたらす悟性の純粋概念は、直観の多様に関してみられた判断の論理的機能にほかならない。

論理的形式とカテゴリーとは、一方が判断に関わり他方が感性的直観に関わる二つの別個の概念の集合としてではなく、二つのレベルで働く単一の悟性に属する機能の一つの集合とみなすべきである。では何が論理的形式とカテゴリーとを区別するのだろうか? 感性的直観との連関の有無である。論理的形式にとって感性的直観は完全に異質なものである。他方カテゴリーと感性的直観との連関は、のちに我々の感性的直観のうちにカテゴリーの図式を見出すことへとつながるだろう。

*1:なぜ素直にその論理的形式と解さないのかわからない。そう採ってもアリソンの読みに影響はないと思う。