Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ラントン「旧来の問題」『カントの謙虚さ:物自体について我々が無知であること』第1章 Langton “An old problem” In Kantian humility : our ignorance of things in themselves (pp. 7-14).

  • Langton, Rae (2001). An old problem. In Kantian humility : our ignorance of things in themselves (pp. 7-14). Oxford: Clarendon Press.

物自体について我々が無知でありながらその存在と触発については知識を持つ、というのは矛盾ではないか、というカント解釈における「旧来の問題」について、アリソンのデフレ的提案を批判した上で、形而上学的提案によって解決を図る。

1 旧来の問題

1.1 導入

カント哲学は二つの触発関係relations of affection――経験的なそれと超越論的なそれ――を含意していると考えられてきた。一方で我々は物体によって触発され、他方で我々は物自体によっても触発される。双方の触発関係とも観念論にとって不適切だと思われている。というのも経験的触発関係は単なる表象の因果作用を必要とし、超越論的触発関係はそもそも知られないと考えられているからだ。本章での我々の関心は主として物自体によって提起される問題〔超越論的触発関係〕にある。

件の問題はカントに二つの形而上学的テーゼ(K1, K2)と一つの認識論的テーゼ(K3)を帰することから生じる。

  • K1 物自体は存在する。
  • K2 物自体はフェノメナルな現象の原因である。
  • K3 我々は物自体についていかなる知識も持ちえない。

K3は次の系を含意すると思われる。

  • C1 我々は物自体が存在することを知りえない。
  • C2 我々は物自体がフェノメナルな現象の原因であることを知りえない。

我々はK1とK2を知りえない。カントの論説〔K1-3〕はそれ自身語りえないのである。

1.2 アリソンのデフレ的提案

『カントの超越論的観念論』第11章でアリソンはこの問題と対決している。彼によればカントは存在に関する主張にではなく哲学的方法論に関心があったのであり、フェノメノンと物自体の区別は、二種の事物の区別ではなく我々が事物を思考するconsider things 二つの仕方の区別である。一方で我々は経験的水準において、つまり感性との関係において事物を思考し、他方で超越論的水準において、つまり感性との関係を捨象してin abstraction from事物を思考する。哲学する際、我々はしばしば感性との関係――空間的・時間的・カテゴリー的属性――を捨象して事物を思考するが、このことは非空間的・非時間的・非カテゴリー的事物が存在することを意味しない。三つのテーゼは次のように改良される。

  • A1 我々は事物をそれ自体として、すなわち我々の感性の諸条件を捨象して思考しうる。
  • A2 我々の感性の諸条件を捨象して考えられた事物は、心を触発する何物かとしてのみ思考されうる。

アリソンの見解では、物自体が時空的に記述不可能であることは分析的である。物自体についての言明は定義上、空間・時間・カテゴリーに関する全ての言及を捨象した言明なのである。知識は形式とカテゴリーが適用されてのみ生じるので、物自体についての我々の無知を示すK3はこう書き換えられる:

  • A3 我々の感性との関係を捨象して考えられた事物は、我々の感性の諸条件を捨象して考えられた事物である*1

「心を触発する何物か」という以外の仕方で物自体を規定することは方法論的不純の罪を犯すことになる。物自体について、我々は捨象を止めて経験的水準に下降するまでは何も言うことができない。従って「何が心を触発するのか」という問いに対する答えは、「光、空気、元素等々」という経験的なものである。「何物か」とはフェノメナルな対象を超えた何物かではなく、集合的に指示されたreferred to collectivelyフェノメナルな対象のクラスが抽象的な仕方で思考されたところのものなのである。

1.3 アリソンの解釈が疑わしい理由(分析性と因果性の問題)

アリソンによれば我々が物自体について知識を持っていないことは分析的である。この分析性に関して二つの問題点がある。第一に、K3に対するカントの態度と合致しないということである。カントは、それ自体として事物を知らないことによって我々が何かを取り損なっていると考えていた。[しかし、A3によっては何も取り損なわれず、]またA3が偽であることを欲する「経験の限界を超え出てどこかで確固たる足場を掴み取ろうとする抑えがたい欲望」(A796/B824)がいかなるものなのかは謎である。第二に、いかにして誰かあるいは何物かが物自体についての知識を持ちうるcouldのか、という問いが無意味になってしまう。アリソンが正しければ、カントはK3の否定についていかなる内容を与えることも試みなかったであろう。しかしカントは物自体〔超越論的客観〕について知識を持つことは「当の客観を[他の客観から]区別する〔弁別的な〕内的な述語によって規定可能な事物と考え」(A565/B593)ることであると言っているし、またこの引用とアリソンの見解は調和しがたい。アリソンによれば、[物自体について知識を持つことは単に否定的に規定されるに過ぎない。すなわち、]事実そのものによってipso facto〔定義からして〕、物自体について語ることはいかなる弁別的な述語も捨象して事物について語ることである。

分析性に加えて、第二に、因果性の問題がある。A2(:我々の感性の諸条件を捨象して考えられた事物は、心を触発する何物かとしてのみ考えられうる。)はなるほど非時空的で不可知の事物にはコミットしていないが、依然として因果的主張に留まっている。[しかしアリソンによれば]因果性は我々の感性との関係においてのみ思考された事物のカテゴリーなので、彼は自らを陥れていることになる。さらに、アリソンの提案は、物自体が我々を触発するという主張を有意味にするかもしれないが、物自体はフェノメナルな経験的対象の原因であるというカントの主張を偽にする。すなわち、「心を触発する何物か」〔物自体〕がフェノメナルな対象のクラスと同一(抽象的で集合的な仕方で指示されるところのそれ)なのであればーー同一の事物の間に因果関係は成立しないのでーー両者の間に因果関係は成立しないことになる。

1.4 形而上学的提案

二つの世界があるのか、それとも一つの世界が二通りの仕方で思考されるのか? カントは相反する意見を持っているように思われる。

我々は現象としての何らかの対象を感性体Sinnenwesen (フェノメノン)と呼び、その際、我々がその対象を直観する仕方と、その対象の性状自体そのものとを区別する……我々はこの対象(たんに悟性によって思考されたそれ)を……言わば前者に対立させて……知性体Verstandeswesen (ヌーメノン)と呼ぶ。(B306)

区別されているのは対象を直観する仕方と対象の性状そのものとであって、「フェノメノン」と「ヌーメノン」という標識は同一の事物を指示する――一見してそう読める。しかし、感性と知性とは、あたかもそれらが二つの共通要素を持たないnon-overlapping事物の集合であるかのように記述されてもいる。これらの相反する意見が説明されねばならない。

我々の提案では、世界は一つだが、二つの共通要素を持たない属性の集合がある。一つの世界すなわち一つの事物の集合と、二種の属性(内的属性と関係的属性)とがある。「フェノメノン」と「ヌーメノン」は同一の事物の集合の異なる属性のクラスを表すのである。二つの属性のクラスの間の区別は形而上学的な区別であり、うち関係的属性のみが認識論的な意義を持つ。K1-3は次のように解されるべきである。

  • M1 物自体、つまり内的属性を持つ事物は存在する。
  • M2 内的属性を持つ事物は関係的属性――フェノメナルな現象を構成する因果的力――をも持つ。
  • M3 我々は事物の内的属性についていかなる知識も持たない。

M3はM1, 2に矛盾する系を持たず、旧来の問題は解消される。我々は内的属性がであるかを知ることなしに、内的属性を持つ事物が存在することを知ることができる。それ自体としての事物に関する知識は内的属性を持つ事物が存在することを知ること以上に「弁別的で内的な述語」(A565/B593)を事物に帰する能力を必要とするのであって、M3(「内的属性についていかなる知識も持たない」こと)とM1(「内的属性を持つ事物が存在する」という知識を持つこと)は両立するのである。M2とM3も、因果的力が内的属性でないという前提を認めれば矛盾しない*2

M3はまた、些末で分析的なテーゼではなく、「我々には事物の内的なものを見通すことが全く叶わない」(A277/B333)という「嘆き」を確かに説明するものである。

*1:アリソンによる物自体と知識の定義に従ってK3を素直に書き換えるとこうなる:「我々の感性との関係を捨象して考えられた事物について、我々は、いかなる我々の感性との関係なしでは持ちえないもの(=知識)も持ちえない」 これに、「知識が成立しない被定義項についても、定義を繰り返したトートロジーは成立する」という前提を加えればK3が帰結する。――ということなのか。

*2:ラントンの解釈のポイントは次の2点だろう。1. 内的属性というタームを用いて、存在についての知識と属性についての知識とを明確に区別すること。 2. 関係的属性というタームを用いて、因果的力をそちらに帰属させること(とはいえ関係的属性とは何かは未だ不明である)。