Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

久保元彦「内的経験(一)」

  • 久保元彦「内的経験(一)」同『カント研究』創文社、1987年、91-116頁。

当論文の骨子は、カントの形式探究が超越論的観念論を越えた地点にあると論じ、それを踏まえてカントにおける内的経験の問題を位置づけることである。

1 本稿の目的

第四パラロギスムス〔A366-380〕中でカントは存在をそこで了解し語りうるところの場(存在把握の場)が何処にあるか*1を問い、超越論的実在論・経験的観念論に抗して超越論的観念論をその問いへの唯一可能な考え方として確立しようとし、またそれに失敗している。本稿〔(一)〕の目的は斯かる消息と、その結果として内的経験への問いが核心の問題として〔先取りして言えば、「表象一般が存在を告知するのはそれが形式としての時空を含むが故だと分かったが、ではコギト的表象の身分は何なのか」という問題として〕現れてくる様を見届けることである。

2 超越論的実在論・経験的観念論の原理的困難を乗り越えるための超越論的観念論、その内実

超越論的実在論も経験的観念論も次の4つの根本前提を共にしており、それ故共通の原理的困難を有している。

  • (i) 「それ自体において私の内部にあるもの」(表象・現象)のみが直接的に把握されうる。〔:内在者の直接的存在把握〕
  • (ii) 「それ自体において私の外部にあるもの」が「それ自体において私の内部にあるもの」の原因(超越論的対象)となりうる。(原因性を度外視する時それは物自体と呼ばれる) 〔:原因としての外在者〕
  • (iii) 「それ自体において私の外部にあるもの」が真実在であり、「それ自体において私の内部にあるもの」はその結果としての第二義的存在者である。〔:真実在としての外在者〕
  • (iv) 真実在たる「それ自体において私の外部にあるもの」には結果から原因を辿る推論によってのみ接近可能である。〔:外在者の推論的存在把握〕

これらの前提を受け容れる超越論的実在論と経験的観念論の困難はこうである:「それ自体において私の外部にあるもの」の推論による存在把握の正当性を保証する方途はありえず、我々が実在に接しうる見込みは完全に絶たれている*2

二点指摘しておく。第一に、現象と物自体の区別とは第二義的実在と真実在との区別である、というカント解釈は超越論的観念論を超越論的実在論・経験的観念論と混同している(∵前提(iii))。第二に、カントの洞察は次の点にある:存在の根拠の問題は通例存在の原因の問題に置き換えられてしまう。存在の原因への問いは必然的存在者の存在を論証すること(思弁的神学)ないし現象の背後に真実在を裏打ちすること(超越論的実在論・経験的観念論)によって解決を企てられるが、両者は共に失敗する*3。[先取りして言えば、これを踏まえて根拠の問いを原因の問いに置き換えることを止め、根拠の問いをそれそのものとして考察するために見出された場が(超越論的観念論ではなく――このことは当論文第3節以降で論じられる――)形式探究なのである。]

超越論的観念論とは、前提(i)〔:内在者の直接的存在把握〕を維持し、その他の前提〔原因としての外在者、真実在としての外在者、外在者の推論的存在把握〕を廃棄し、存在把握の場を「それ自体における私の内部」に転換する試みである。

この理論の最小限の要件は次の2つ――1つ目は存在把握の場としての「外部」の拒否と再設定に、2つ目は「内部」の保持に関わる――である。

  • (a) 「それ自体における私の外部」という概念の原理的理解不可能性を明言することで、それについて人が云々する権利を排除し、その概念をもっぱら純粋形式としての空間を意味するものとして定義し直すこと*4
  • (b1) 表象内容を意識することが直ちにその内容の存在の証明となるような特殊な表象〔以下「コギト的表象」〕がある。(b2) 表象の意識が同時に表象内容の存在の証明である、ということは如何なる表象にも妥当する。*5

要するに超越論的観念論とは、「それ自体における私の外部」という概念の除去であり、「それ自体における私の内部」という概念の理解可能性〔このような概念が成立すること〕に対する一途な信頼である。

3 超越論的観念論も同じ原理的困難を乗り越えられない

しかし「それ自体における私の外部」という概念を排除するならば、「それ自体における私の内部」という概念にいかなる意味も残されないだろう。実際、カントは、原因としての「それ自体における私の外部」すなわち超越論的対象を認容してしまっている。ここで、いや、それが原因であることを認容することはその存在を認めることではない、と言って踏みとどまることはできまい。また、別の意味で存在するのだ、と言うのであれば、そもそも先述の困難など起こりえなかったはずである*6

「〔原因、真実在、推論的存在把握の対象としての〕外部」を排除すること無しには存在把握の場として「内部」を確保できないだろうが*7、「内部」を確保する限り「外部」を排除することができない。したがって結局、超越論的観念論は前提(ii)〔:原因としての外在者〕を受け容れ、「内」「外」を共に保持する点からして超越論的実在論・経験的観念論と同一の原理的困難から逃れることができない*8

4 超越論的観念論から形式探究へ

「全ての表象がコギト的表象である訳ではない」 超越論的観念論の要件(b2)に対する予想されるこの反論に際して、カントは、コギト的表象とそうでない表象とを区別し、知覚を前者に割り振る。しかし、それは要件(b2)を放棄することであり、超越論的観念論を放棄することである。カントはしかしここでの分析を通じて、超越論的観念論から区別される、形式探究へ向かう途を拓いた。すなわち、知覚が存在を告知するのはそれがコギト的表象(それを意識することがその内容の存在の証明であるような表象)を含んでいるからではなく、それが経験の形式としての時空を含んでいるからである。

5 内的経験の問題の位置づけ

超越論的観念論も、「私の内部」の原因を「私の外部」に求める点で、超越論的実在論・経験的観念論と同じ穴の狢であり〔cf. 前提(iii)〕、[存在の根拠の問いを存在の原因の問いに置き換えたに過ぎなかったが(cf.当論文第2節)]、カントが発見した形式探究とは、存在の根拠を問うことと存在把握の場を問うことが同一であるような問いの次元であった。その意味で第四パラロギスムスは理想論を越えた地点に達している。

表象は経験の形式としての時空を含むことによって存在を告知すると分かったが、ではコギト的表象はどうなのか。カントにおける内的経験の問題を適切に理解するには、以上のことを踏まえなければならない。

*1:「存在する」という語を私の「内部のもの」と「外部のもの」のどちらについて用いればよいのか、ということ。

*2:カントの挙げている困難は次の2点である:推論以外に対象の現存在を認識する方途がないこと、またその原因〔対象〕が我々の内にあるのか外にあるのかが不確実なままであること。(A372)

*3:前者の失敗については理想論および久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」同『カント研究』創文社、1987年、351-420頁を参照。まとめ記事が以下にある。

久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」 - 手習

後者の失敗は、久保の解釈では、「実在に接しうる見込み」が「完全に絶たれている」ため。

*4:経験的に外的な対象を超越論的意味で対象と呼ばれうるもの〔物自体としての対象〕から区別して、端的に、空間において見出されうる事物と名付けておきたい。」(A373)

*5:「超越論的観念論者は…単なる自己意識から出て行くことなしに、また、私の内なる諸表象の確実性以上の何ものをも、従ってコギト・エルゴ・スム以上の何ものをも受け入れることなしに、物質の存在を認容することができる。」(A370) デカルトにおけるコギトと神という2つの原理のうち後者を拒否しつつ存在把握を維持するとなれば、こう述べるのは自然な成り行きなのだろう。この要件に対する反論については当論文第4節を参照。

*6:いや、実在に接触しえないという困難はあくまで外在者=原因を真実在とみなすことから生じたのである。外在者=原因は別の意味で存在する(いわば存在2する)のだということからは存在1に接触しえないという困難は生じないし、存在2に接触しえないことは、存在1には接触しうる以上、とりたてて困難ではないとも言えるだろう。

ここで、存在2するような外在者は時空に位置を占めてはいないから正確には原因2である。これは、カントが物自体を、主観に働きかける或る意味での原因と見做していたという、指摘される難点に対して、物自体と主観の間の因果関係は現象間の因果関係とは異なるのだと答えることと同じであろう。これはEwing――A Short Commentary on Kant’s Critique of Pure Reason, 1930においてか――らが採った解釈であるらしい。(cf. ケルナー『カント』野本和幸訳、30頁)

*7:先註と同様に、原因2, 存在2, 推論的存在把握の対象としての「外部」ならば、それを排除すること無しに存在1把握の場として「内部」を確保することができるだろう。その途を採ると今度は、存在2把握の正当性を保証する方途はない、という困難に突き当たることになろう。――そしてこのことが、物自体(存在2)は認識不可能である、ということで言われていたことだ、とも言えるのではないか。

*8:超越論的観念論は存在の二義性を受け容れ、存在2については不問に付し存在1については問題なく把握できるとする点で、存在の一義性に固執するがために存在把握が一貫して覚束ない超越論的実在論・経験的観念論よりも優れている、とも言えるのではないか。