Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

パトナムの水槽脳 Brueckner, "Putnam on brains in a vat"

  • Tony Brueckner, "Putnam on brains in a vat", in The Brain in a vat, 19-26, Sanford C. Goldberg (ed.).

夏休みに入ったばかりに注文した本が届いたのでとりあえず頭から読んでいく。

要約

水槽脳仮説とその帰結

心は物理機構だとする物質主義者なら、心は物質を欠いた世界には在りえないことを理由に、デカルトの悪霊の懐疑を否定するかもしれない*1。その点、パトナムの水槽脳仮説は物質主義と両立可能である:あなたは培養液に満たされた水槽の中に浮いている脳である。この脳はコンピュータに接続されており、そのプログラムは、外界の対象を知覚した結果通常の脳が刺激されるのとちょうど同じ仕方で*2脳を刺激する電子刺激を生む。

この仮説を受け容れると、あなたが外的世界に関して何らの知識も持たないことが帰結する。すなわち、 

(a) もしあなたがPを知っているならば、あなたはあなたが水槽脳ではないことを知っている。

(b) あなたはあなたが水槽脳でないことを知らない。

したがって (c) あなたはPを知らない。 

ここで、前提(a)は、知識が既知の内含の下で閉じているという原則に依っている:任意のS, α, βについて、もしSがαを知っており、またαがβを内含することを知っているならば、Sはβを知っている。

さて、あなたは、Pが、あなたが水槽脳ではないことを内含することを知っている。ゆえに(a)

パトナム的反懐疑論の簡略版(以下SA)とそれに対する諸反論及び再反論

SAは次の通りである。

(0) 対象を指示するためには、語のトークンと対象の間に因果関係がなければならない。(意味論的外在主義前提)

(1) もし私が水槽脳ならば、私の語「木」のトークンは木々を指示しない。(∵0)

(2) 私の語「木」のトークンは木々を指示する。

(3) 私は水槽脳ではない。(∵1, 2)

 

6つの反論が考えられる。

  • 反論1.1 前提0, 1を受け容れれば、前提2は結論が真である時に限り真である。したがって論点先取。
  • 再反論 同じことは任意の後件否定に対して言える。ところで後件否定は正しい推論である。よって、SAは正しい推論である。
  • 反論1.2 前提2の正当化は結論に負っており、これは認識論的循環である。
  • 再反論 否。私の語「木」のトークンは木々を指示する、とは、「木」が電気インパルスでも牛でも牛乳でもブラジル等々でもなく木々を指示する、という私の言語の意味論的知識に依っている。
  • 反論2 前提2を受け容れるためには私が水槽-日本語を話す水槽脳ではなく、日本語を話す非-水槽脳であることを仮定しなければならない。これは論点先取である。
  • 再反論 私が日本語と水槽-日本語のいずれを話しているにせよ、私は先述の素朴な意味論的知識に基づいて前提2を正当化する。*3
  • 反論3 私が水槽脳であってもまた、SAと同じ議論をする。その際、私の語「木」のトークンは木々を指示しないから、私は私が水槽脳でないということとは他のことを証明しているのである。
  • 再反論 それは水槽脳の為すSAに過ぎず、SAの正当性には影響を与えない*4

  • 反論4 水槽脳仮説やSAを知らない人にとってこれらはどういった意味を持つか、という点に関わるもの。(省略)
  • 反論5 前提2は、木々の存在を、したがってこの世界が水槽脳-世界でないことを前提している。
  • 再反論 SAを存在前提なしに改訂することができる。

(1’) もし私が水槽脳なら、次のことは真ではない:私の語「木」が何かを指示するのであれば、それは木々を指示しない。

(2’) もし私の語「木」が何かを指示するならば、それは木々を指示する。

(4) 私は水槽脳ではない。

  • 反論6 SAは私がつい水槽脳になったばかりではない、ということを証明できない。というのも、その場合私の語「木」が依然として木々を指示していながら、つまり前提2は(前提0, 1も)保持されながら、私は水槽脳であるからだ。
  • 再反論 正しいが、その場合私の知識の多くもまた真であろう。

パトナム的反懐疑論の変種*5

私は水槽-日本語を話す水槽脳であるか、日本語を話す非-水槽脳であるかである。第一の場合、水槽-日本語における私の発話「私は水槽脳である」の真理条件は、私が水槽脳であるという体験をコンピュータ・プログラムが作動させていることであるが、これは現に満たされていない。したがって私は水槽脳ではない。第二の場合も同様である。ゆえに、私は水槽脳ではない。

*1:無理であろう

*2:この設定に意義はあるのか、ということについては青山拓央(2005)「培養脳と素朴脳科学」を参照。

*3:しかしこの知識によって正当化されるのは「私の語「木」のトークンは木々を指示する」と私が信じていることに過ぎないのではないか。

*4:現実世界から見れば、私が水槽脳であるような可能世界において私=水槽脳によって証明される「他のこと」とは、私が「私が水槽脳ではない」という電子刺激を受けたということだろう。現実世界は水槽脳-可能世界について、「君は水槽脳-可能世界だ」と規定することができる。

現実世界から見れば、と書いたが、逆方向から見ればどうか:可能世界から見れば、現実世界において私=水槽脳によって証明される「他のこと」とは、私が「私が水槽脳ではない」という電子刺激を受けたということである。――これは、そのようにこの現実世界を規定するような可能世界がある、というだけのことである。

では、最後に、現実世界から現実世界を見たらどうか:現実世界から見れば、現実世界において私=水槽脳によって証明される「他のこと」とは、私が「私が水槽脳ではない」という電子刺激を受けたということである。――それは言えない、というのがパトナムの洞察であった。

*5:2つ紹介されているが、うち1つのみまとめる。また、それに対する反論/再反論も省略。