Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

ロングネス「「我思う」についてのカントの議論」

  • Longuenesse, Béatrice. 2017. I, Me, Mine: Back to Kant, and Back Again. Oxford University Press, 73-82.

第4章 「我思う」についてのカントの議論(Kant on ‘I Think’)

本章は次の3点を扱う。(1)デカルトのコギト論証にあって「思う」が一人称で述定されることがなぜ重要であるかを説明する。(2)カントの演繹論における一人称での述定の理由が、デカルトのそれと違うと論じる。(3)デカルトのコギト論証についてのカントの誤謬推理章での論議を検討することを通じて、「我思う」からの「我あり」の導出に対してカントの与えている正当化が、デカルトのそれからどの程度異なるかを明らかにする。

4.1 デカルトの「我思う、ゆえに我あり

[「我思う」の「我」は(α)truth-makerであり、また(β)そのことに気づく]

「思惟が起こっている」という非人称的命題に対して、「我思う」という命題は二つの弁別的特徴――意味論的なそれと認識的なそれ――を有している。(α)意味論的な特徴。「思惟が起こっている」という命題は、思惟のいかなるエピソードによっても真になる。対して「我思う」は、当の命題を今思惟している者によって・彼が当の命題を思惟しているという理由で真になる。

(β)認識的でより重要な特徴。「我思う」は、当の命題の思惟者によって思惟されているという理由から真であるのみではない。この命題はまた、当の思惟者によって疑いなく真と知られる

まとめよう。述語「思う」を非人称的仕方でではなく私について断定するということは、(β)「我思う」を思うことが〈当の命題を真にするのみならず、当の命題が真であることを知りもする主観〉について真であると主張することに他ならないという事実を表現している。(α)この主観は、当の命題を今思惟している主観である。

4.2 カントの「我思う」

[「我思う」は直観的/概念的双方の統一の要因である]

B版演繹をA版演繹から区別する重要な違いは、カントがカテゴリーのアプリオリな妥当性に対する論証を、(a)判断の論理的機能の、統覚の統一に対して概念的構造を与える際の役割と(b)時空の統一が、直観における対象の諸表象に対して、関係の一つの共通の枠組み(one common frame of reference)を与える際の役割とをめぐって組み立てていることである。あらゆる私の表象に伴いうるのでなければならない、「我思う」という命題は、(b)〈そこに我々が直観の対象を位置づける時空の想像されたimagined統一〉と、(a)〈判断や推論で結びつけられる諸概念の属する論理空間〉の統一すなわち一貫性を仮定することとの双方の要因たる(responsible for)自発性の働きを、論弁的に(つまり判断における諸概念の結合の形で)表現している。「我思う」にあって「思う」が「私」について述定されるという事実は、結合する働きを意識していることの概念的表現なのである。

[第二省察と演繹論。議論の標的と戦略の違い]

演繹論での「我思う」(↔第二省察のそれ)は、〔任意の概念が指示する〕実在についての懐疑に対する解決策として導入されたのではない。むしろ標的は、第一義的に因果的結合〔という特定〕の観念(概念)の客観的妥当性に対して向けられる懐疑論である。カントは、「我思う」は「我あり」が真でない限り真でありえないという主張(デカルトの答え)へと進むことには関心がない。彼はむしろこう進むつもりなのである。私が自己に帰属するあらゆる表象は、それらを結合し比較する一個同一の働きにおいて取り上げられる(taken up)ことのゆえにそう帰属されるのである。その働きは若干の普遍的な悟性概念に従って規定されており、それには因果的結合の概念が含まれている(カントの答え)、と。

[演繹論の「我思う」の議論の眼目は、(α)truth-makerであることおよび(β)それへの気づきにではなく、その気づきを引き起こすもののいわばメタ的な説明にある]

演繹論の「我思う」における「我」の役割は、コギト論証でのそれと両立可能である。なぜなら、カントの主張――「我思う」は、統一する活動の為し手の・その活動に従事しているという意識を表現している――から、(α)「我思う」を思惟する者は、彼の思惟のゆえに当の命題のtruth-makerであるという主張、そして(β)「我思う」は、自分が当の命題を思惟していることのゆえに当の命題のtruth-makerであるということへの思惟者の気づきを表現しているという主張までは短いステップだからである〔下線を加えればよい〕。

(α)(β)がデカルトのコギト論証における一人称性の二つの意義であったことを思い出そう。上段落のように並べれば分かるように、カントは〈何が思惟者をして彼自身を当の命題のtruth-makerとして意識せしめるか〉の説明を、換言すれば、「我」について「思う」を断定する認識上の根拠〔どういう認識上の機能が働いているか〕――ひとが懐疑からの脱却を企てているか否かに対して中立的なそれ――の説明を加えたのである。