Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「誤謬推論」「純粋理性のアンチノミー」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第12, 13章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 333-368).

pp. 172-282, 285-306, 317-332を飛ばしている。

第12章 誤謬推論

誤謬推論の関心は、合理的心理学――「我思う」という純粋な源泉のみに基づく、魂ないし自己についての教説――の体系的批判を提供することである。解釈するにあたっては、合理的心理学批判と〈その根底に存する弁証論の体系的関心、すなわち超越論的仮象と超越論的実在論〉との結びつきを見ることが肝要である。

I 第一版における誤謬推論

A 第一誤謬推論

[推論の非妥当性。媒概念曖昧の虚偽]

第一誤謬推論は魂の実体性に関わる。カントの批判によれば、大前提が実体カテゴリーを超越論的に使用しているのに対して、小前提と結論は同じカテゴリーを経験的に使用している、つまり、規則の条件としての実体カテゴリーの下に包摂している(A402)。換言すれば、「実体」が大前提と小前提では異なる意味に取られているのである。

[推論の実りなさは、大前提におけるカテゴリーの超越論的使用、および「私」に対する図式の欠如に由来する]

カントはしかし、推論の妥当性よりもむしろその実りなさに焦点を当てている。この実りなさは、大前提がカテゴリーをその純粋ないし超越論的な意味(或るもの一般の概念)に取っているという事実に由来する。この事実のゆえに、合理的心理学者は大前提の内容を「私」について実在的に論定することができない。なぜなら、我々は〈その下でのみ魂*1が合法的にカテゴリーの下に包摂される条件(図式)〉をもっていないからである。したがって、大前提から、魂の非物質性、不壊性、持続性に関わる形而上学的結論を引き出すことはできない。

ところが、第一誤謬推論は、「我思う」の論理的な除去不可能性を、対象としての思考主観の実在的な除去不可能性(持続性)と混同することによって、これを引きだしているのである。

[3つの問題。(3)への解答]

我々には三つの問いが残されている:

(1)なぜカントは、合理的心理学者による「取り違え」(現象と物自体の混同に基づく形而上学的誤謬)を、実体化された意識の取り違えと述べたのか。〔この問いに対しては「実体化」を明確化することによって答えよう。〕

(2)そうした誤りはいかにして超越論的仮象と関係するのか。〔取り違えと仮象の関係を明確にして答えよう。〕

(3)こうした形而上学的誤謬と三段論法の形式的誤謬とはどう関係するのか。

(3)の答えはこうである。本来なら、「私は実体として考えられなければならない」という結論が引かれるべきところを、彼らは「私は実際に実体である」と結論してしまったのである。

[取り違え-実体化-仮象]

(1)(2)は、〈取り違えおよび仮象〉と実体化との複雑な関係に関わる。〔この関係を明確にすれば答えることができる。〕仮に合理的心理学者の形而上学的誤謬を取り違えと同定するのであれば、我々はこの取り違えの根底にある実体化〔次段落参照〕を仮象と等置せねばならない〔さもなければ仮象がなくなってしまう〕。カント自身がそうしているようにも見える(A402)。しかしもしこれが本当なら矛盾をきたす。なぜなら、実体化それ自身は、形而上学的誤謬であるがゆえに避けることができ、それゆえ不可避的な仮象とは同定されないからである。したがって実体化は、[不可避的]仮象と[避けられる]取り違えの中間段階とみなすべきである*2

[実体化と取り違えは相互的である]

実体化と取り違えの関係から見よう。取り違えを思考する主観に関してのカテゴリーの暗黙的使用と解するのであれば、これは実体化を前提すると言ってよいだろう。実体カテゴリーを私に適用できるのは、私を存在者とみるときに限られるだろう。逆に――もし人が実体化されたものについて何ごとも主張しないのでなければ――取り違えなしに実体化することはできないだろう。したがって、合理的心理学、あるいはより一般に特殊形而上学にあって、実体化と取り違えとは相互的な誤りといえる。

[仮象と実体化。仮象は原理P1P2の混同であり不可避的である。実体化は、それに実在措定を加えたものであり、避けられうる。]

次に実体化と仮象の関係を見よう。これらが区別されねばならないのは、カントが誤謬と仮象を区別するからである。さて、合理的心理学の形式的誤謬と超越論的仮象との結びつきをみるために、これらの誤謬の根底にあるとされる超越論的根拠(A341/B399)から明確にしよう。超越論的根拠とは、 P2――悟性のあらゆる条件付けられた対象に対する諸条件の絶対的総体性の所与性――にほかならない。では、いかにしてこの錯覚的な原則が、合理的心理学者をして「私」を実体化させ、不法な推論へと導くのか。

仮象は P1と P2の混同から生じる。すなわち、理性の格率として単に主観的妥当性をもつ P1が、あたかも客観的妥当性をももつとみられる(P2)ことから生じる。対して実体化は、原則ではなく想定上の存在者に関わる。実体化するとは、主観的に妥当的な原則(P1)を客観的に妥当的とみなす(P2)のみならず、この想定に基づいて、実在者を主張することである。実体化は、仮象と区別されつつそれに基づいている。

敷衍しよう。P2の影響下で合理的心理学者は、〈「私」を思考の絶対的主体と考え、それゆえ実体一般、単純なもの等々として考える〉というたんなる主観的必然性を、客観的必然性と混同し、これに基づいて実在的存在者(魂)を定立する。これは不可避ではない。不可避的なのは、統覚の統一をあたかもそれが物の統一であるかのようにみなす――なぜならこのことは、統覚の統一を思考の無条件的根拠とみなす条件だから――ことである(仮象)。

[合理的心理学者は超越論的実在論者であるがゆえに仮象に欺かれ、取り違えを犯す。超越論的観念論者ならこれらを避けられる]

合理的心理学者がこのまやかしの客観性によって欺かれるのはなぜか? それは、彼らが超越論的実在論者として、合理的に必然的なものの領域内で主観的なものと客観的なものとを区別することができないからである。そうした実在論者にとっては、もしある原則が理性の認可を受けたものとして客観的必然性を備えてみえるのであれば、それは完全に客観的で物自体に適用可能でなければならない。

対して、超越論的観念論なら、客観一般の思考のために主観的に必然的であるものと可能的経験の対象の認識のために客観的に必然的であるものとを区別することができ、それゆえ仮象によって欺かれることを避けうる。

B 第二・第三誤謬推論

1 第二誤謬推論
[カントの批判は、小前提を支持する理由の根拠を全て棄却することに存する。特に、その根拠が分析的ではないことについて。第一誤謬推論との共通点。]

第二誤謬推論は魂の単純性――これはその非物質性と密接に関わる――に関心する。カントの批判は、小前提を支持する(推論には表面化していない)理由へと向けられている。当の理由はこうである。思考のために要求される統一は、物質主義者がそう考えるように別個の諸存在者の集合的働きの結果とはみなされえない、と。

カントはこの理由(証明)の根拠を問い、ありうるすべてを否定することでこの証明を棄却する。いわく、総合的アプリオリでもアポステリオリでも分析的でもない。最後の点は、一見して統覚の総合的統一の分析性と衝突するように思われる。区別しておこう。合理的心理学者の主張は因果的である。この主張は〈思考がその結果である存在者〉に関わるのであって、それゆえに総合的なのである(A353)。

また、合理的心理学者による、主観の表象の単純性と実在的主観の単純性との混同は、〈P2に基づく思考主観の錯覚的実体化〉に立脚している(A355)。これは第一誤謬推論と同様である。

2 第三誤謬推論
[第二誤謬推論との共通点と相違点(人称的対比)]

第三誤謬推論は自己の通時的同一性に関心する。これは第二誤謬推論が自己の共時的同一性――ある時点におけるおのれ自身との同一性(単純性)――に関わるのとパラレルである。

第二誤謬推論と異なる点を見ておこう。注目すべきは、〔合理的心理学者の採る〕三人称観点と一人称観点との対比である。この対比は、空間における外的感官の対象に数的同一性を帰属する根拠と、時間における内的感官の対象としての自己に関するそれとを区別する文脈で導入される。前者の場合、この帰属は、対象の諸規定の変化を通じて存続すると経験されるものに基づく経験的判断に存する。対して後者の場合、合理的心理学者の主張するところでは、そうした帰属に失敗することはない。このことから同一性の一人称判断は疑いえないとされる。しかしカントによれば、これは対象(自己)への特有のアクセスによるものと解されてはならず、むしろ単に思考主観が必然的に己にとって単一の意識だからである、ということに基づく(A362)。カントは、合理的心理学者の一人称観点から、人格性の問題が適切に提起されうるあるいは答えられうるということを否定する。彼らの誤りは一人称観点と三人称観点を対比[し、前者を採って問いに答える]点にある〔カントによれば、後者を採って答えるべきである〕。カントによれば、一人称観点から不可避的に自己が同一であるのはそれが思考の条件だからにすぎない。とはいえ三人称観点からは――ここでは人格性の問いは外的感官の対象の同一性の問いと同様のものとみなされる――この問いは全く適切である。そこではしかし、「我思う」は答えのために役立たない。

[二重のテーゼと一対の思考実験。第一の思考実験の眼目は、人格性が三人称観点から論じられるべきであるという点にある*3]

カントは、一方で一人称観点からは人格性は必然的であり、他方三人称観点からは肯定できないという二重のテーゼを、一対の相補的な*4思考実験によってイラストレートしている。 第一の思考実験では(A363)、人がおのれ自身に関して三人称観点を想定する、すなわち自分自身を観察者の外的直観の対象とみなす。そうした観察者は、〔被観察者としての〕私が内的感官の対象としての私自身に人格性を帰属することをこころよく認める。しかし、このことは観察者の判断とは無関係である。

[第二の思考実験の眼目は、三人称観点からは人格性は維持されないという点にある。合理的心理学者の誤謬の要約]

第二の思考実験においてカントは、意識がある思考実体から他のそれと伝達されるシナリオの可能性を指摘する(A363-64)。ポイントは、このシナリオが真であれば私の論理的同一性が維持されるのに対してその実体的同一性は維持されないという点にある。

第三誤謬推論における合理的心理学者の誤りは、自己の数的同一性という三人称的なタイプの問題を扱いながら、一人称的考察に訴えてそれに答えようとした点にあると言えよう。さらにこれもまた、〔一人称的観点から、実体としての私の同一性を論定する点で〕「実体化された意識の取り違え」とみなされうる。

II 第二版における誤謬推論

カントは第二版誤謬推論において新たに、第四誤謬推論の新たな特徴づけ、誤謬推論が集合的に含む形式的誤謬についての簡潔な説明、そして統覚と自己の実在の意識との関係についての論議――これはB版演繹と観念論論駁で始まったデカルトのコギト概念批判を完結させる――を提供している。

A 新たな分析

[誤謬推論一般に関して]

誤謬推論一般が基づく不当な推論の定式(B410-11)が第一版第一誤謬推論のそれと異なる点を2点指摘しておこう。第一に、大前提はもはや単に実体の名目的定義を提供しているのではない。そのもとで何らかの実在する存在者が実詞的身分を割り当てられる条件を述べている。第二に、小前提はもはやカテゴリーの経験的な(図式化された)使用を暗黙的になしているのではない。思考する存在者が当の条件に適合していると述べている。第二版の誤謬推論はしたがって、思考主観の実在の様式modeを前面に出している 。

[第四誤謬推論に関して]

第四誤謬推論の批判は、〈私が私の実在を私の外なる他の諸物の実在から区別することができる〉という分析的命題から、別個の実在としての私を立てる総合的命題への移行が「誤解」に基づくというものである。カントによれば「誤解」とは取り違いを伴った実体化の一事例である。そして先に我々が見たように、実体化は仮象に基づくのである。

B 統覚と実在

カントは一方で自己についての見解をデカルトの立場から区別しながら、他方で実在に関わる次元を統覚の所説に含みもしている(B157及びその注)。

デカルトのコギト推論批判の骨子を含むB422の脚注を解釈しておこう。カント本人が、自己の暗黙的な実体化を犯してはいまいか? この脚注は、そうした問いへの答えと解することができる。論点を三つに絞ろう。(1)私の実在は「我思う」に既に与えられている、という点について。(2)「我思う」は経験的命題であるという点。(3)コギトエルゴスムの批判。

(1)  「我思う」と「我実在す」。カントの実在についての主張は、思考活動の意識としての統覚の概念理解から直接に帰結する。これは自己の実体化を含まない。

(2) 経験的命題としての我思う。カントがこの命題を経験的と呼んでいるのは、第一にこの命題が必然的真理よりはむしろ偶然的真理――事実の真理(ライプニッツ)――を表現しているからである。第二に、思考の働きの機会原因として何らかの感性的表象が働かなければならないからである*5

コギトに含まれる実在の観念がカテゴリーと等置されないという点についてもみておこう。「我思う」は無規定的に与えられた対象だが、カテゴリーはそうした対象には適用されない、とカントは述べている。様相カテゴリーは判断の内容に何ごとも加えないということを思い起こされたい。現実性カテゴリーが使用されるのは、我々が規定的な概念を用い、それに対応する現実的対象があるかどうかを規定したいと望むときに限られるのである。〔「我思う」はそうした規定的概念ではない。〕

(3) コギトエルゴスム:カントの批判。一見してコギト推論説に基づくとみえるカントの批判はしかし、それからは独立である。カントの批判はもっぱら、デカルトが、形式的ないし超越論的な自我を、実在的な私と同定した、すなわち実体化したという点にある。

第13章 純粋理性のアンチノミー

I 不可欠な予備的考察

アンチノミーは、感性界――諸現象の総体――という宇宙論的理念と結びついた仮象の諸種に携わる。カントは、説得的かつ相容れない二つの立場が超越論的仮象に基づくことを指摘し、それを拒否することによって解決を図る。

A 合理的宇宙論における仮象と誤謬

[アンチノミーの発生]

P2を大前提とする弁証論的三段論法(A497/B525)を、感性界という理念に適用すると、誤謬推論ではなくむしろアンチノミーがもたらされる。なぜならそうした総体性を思考する二つの両立不可能な仕方があると判明し、各々が無条件的なものという理念と調和するからである。すなわち第一の仕方は、無条件的な条件を含む(テーゼ)。第二の仕方は、〈その総体性のみが無条件的である無限の諸条件〉を含むのである(アンチテーゼ)。

[宇宙論的理念と他の理念との相違]

現象の総体性の理念として、宇宙論的理念(世界の理念)は、超越論的存在者を指示していないように思われるという点で、他の超越論的理念と異なる(A478-79/B506-07,  Pro338)。別言すれば、魂と神の理念が純粋理性の感性的対象を指示する仮象を含むため擬似合理的であるのに対して、世界の理念は高次の(high-order)感性的対象を指示する仮象を含むがゆえに擬似経験的といってよい。

[宇宙論的理念は二規範に服する。これがアンチノミーの生じるゆえんである。]

ただし、世界の理念は、悟性と理性という二つの衝突する規範に服している。経験的であると称する限りで、この理念は悟性に服している。つまり経験の可能性の条件に服している。他方理念であると称する限りでそれは理性に服している。つまり無条件的なものの思考を含む。〈この理念と結びつく仮象及びそれに基づく推論〉が二面的である理由も、世界の理念が二つの衝突する規範に従属しているためなのである。(一見して、悟性に服する側(アンチテーゼ)に勝ち目があるように見えるかもしれない。しかしそちら側も同様に独断論的であることを我々は後に見るだろう。)

[形而上学的誤りと形式的誤謬――誤謬推論との比較から]

さて、誤謬推論と同様に、[両テーゼの]根本的な誤りは、単なる理念に客観的実在性を付与すること、すなわち実体化することに存している(A509/B537)。違いは、ここでの実体化の所産が感性的なものであると考えられている点にある。この形而上学的誤りは、宇宙論的三段論法における形式的誤謬へと導く。この誤謬は、無条件的なものを両前提において別の意味に取ることに存する。一方で大前提においてそれは純粋カテゴリーの超越論的意味において、他方小前提においてそれは経験的意味において解されるのである。[この点は誤謬推論と同じである。]

B 宇宙論的諸理念の体系

[カテゴリー表から宇宙論的諸理念へ]

カントは宇宙論的理念をカテゴリー表から導く。この導出の原理は、純粋で超越論的な概念は悟性のみから生じる、というものである。〔以下、アリソンは、量・実在性・因果性・必然性を現象の総体性という思考に関して無条件的なものへと拡張することが可能であることを順に見て行く。ここでは二つの論点のみを取り上げておきたい。〕

一、関係カテゴリーにおいて因果性のみが取り上げられ、実体性と相互性が排除されているのは、理念がカテゴリー表に基づくという分析に反しているのではないか? 否。ポイントは、ここでの関心は現象の総体性であるということである。実体も相互性も、現象の一連のserial秩序づけをもたらさないので適任ではない*6

二、第三アンチノミーと第四アンチノミーの区別は、前者が無条件的因果性に、後者が無条件的実在に関わるということで問題ないだろう。しかし第四アンチノミーと理想論との区別、すなわち合理的宇宙論に帰属される必然的実在者の観念と合理的神学に属するそうした存在者の観念との区別は問題含みである。

C 世界と自然、そして数学的/力学的アンチノミーの区別

[世界と自然の区別は、総合される要素が全て時空的か否か、という点に存する]

世界概念と自然概念の区別をみておこう。これは二種類の全体の区別である。世界は、諸要素ないし諸部分の完全な集合という意味における全体である(数学的全体)。自然は、そこにおいて説明上のギャップがないような説明的全体である(力学的全体)(A418-19/B 446-47)。両者の対比は、それらの思考される二種類の総合の区別に基づく。世界という思考にあって、総合されるないし集められる諸要素は、それらが単に時空的なもの、すなわち現象とみなされるという意味において、必然的に同種的である。対して自然という思考にあって、諸アイテムは全てが時空的な諸物ないし出来事であるというわけではないという意味において、異種的でありうる(A528-29/B556-57)。*7

[数学的/力学的アンチノミー]

これら二種の理念から生じるアンチノミーは、異なる分析と解決に従うことになる。数学的アンチノミーは、両テーゼとも、〈独立的に実在する感性界〉という自己矛盾的な概念理解に基づくという理由で誤っている。対して力学的アンチノミーは、そうした概念理解に立脚していないがゆえに両立場とも正しいという可能性を残している。

II 第一アンチノミー

第一アンチノミーは、世界と時空との関係の性状に関心する。時にそうみなされるように時空自身の性状に関わるのではない。

A テーゼ

テーゼの主張はこうである。世界が時間において始まりをもたないとすれば、いかなる時点においても〈諸物の継起的状態の無限の系列〉が流れさった(=無限の系列が完結した)ことになるが、これは継起的総合によっては完結されえないという無限性の性格に反する。

若干の標準的批判

三種の批判を取り上げよう。

1 この論証は粗雑な心理主義を含んでいる〔アリソンによればこれは的外れである〕。カントは、覚知の主観的不可能性から実在の客観的不可能性を推論している(ケンプスミス)。同じことだが、総合への指示は総合という心的活動を前提しているが、これは無限概念の論議には場違いである(ラッセル)。

2 カントは無限の時間を仮定し、そこから矛盾を導き出そうとしている。しかし、たんに有限の時間で〔アリソンはこの点を拒否する〕総合が完結しないというのは仮定と矛盾しない。ここから矛盾を導くからには、カントは論点先取を犯している(ラッセル、ストローソン)。

3 カントは、無限の系列は二つの末端を有しはしない、という真なる命題と、一つの末端をももちえないという偽なる主張を混同している。カントの誤りは、時間的系列が一つの末端(現在)をもつということから、それが無限ではありえないと推論した点にある(ムーア、ベネット)。〔アリソンによればこれは的外れ。〕

*1:これがフェノメノン的実体であれば、当の推論は妥当となると思われる。

*2:アリソンの後述は精確には、「仮象」と「実体化↔取り違え」が両極を成すという構図となっているようにみえる。

*3:アリソン自身がこう明示しているわけではない。

*4:明示されてはいないが、おそらくアリソンはこう解している。第一の思考実験の眼目は、人格性が三人称観点から論じられるべきであるという点にあり、第二のそれは、三人称観点から論じれば人格性は肯定されえないという点にある、と。

*5:しかしそれならばアプリオリな総合的命題一般を経験的命題と呼ぶべきということになりかねないと思う。

*6:理由説明としてはよくわからない。

*7:例えば原因と結果が異種的であるということではなくて、一連の出来事と第一原因とがそうである、ということか。多分違うと思うが。