Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「内的感官と観念論論駁」(1)「理性と仮象」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第10, 11章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 282-85, 307-17).

pp. 172-282, 285-306を飛ばしている。後日埋める。

pp. 282-85

2 自己触発の議論
[自己知は自己触発を含み、自己触発は外的触発と類比的である、というカントの主張。またその問題点について。]

自己触発は『批判』第2版の2箇所のみでしか論じられていない。第一は感性論、第二は演繹論§24である。両箇所でカントは、自己触発を、[時間の超越論的観念性ないし時間形式にしたがう]内的感官の対象の超越論的観念性の理説と結びつけている。

第一(B67-)からは次のことが読み取れる。カントが自己触発と時間の観念性テーゼとを結びつける議論は、触発と感性との結びつき〔――認識の質料が生じるのは心が触発される限りにおいてであるがゆえに、認識の質料は感性(受容性)の形式に従う――〕に立脚している。カントはこう論じている。心はおのれの内容を覚知するためにおのれ自身を触発せねばならないので、心が自分自身についてもつ認識は感性的であり、それがおのれ自身に現象する仕方にのみ関わる、と。

カントの論証の急所は、自己触発が直観を要求するという点にある。これは自己知が自己触発を含むことからの帰結である。したがってこの論証は自己触発と外的触発とのアナロジー以上に強力なものではない。この点について、ペイトンが次のような問題を指摘している。一方で、外的対象による触発の機能は、認識のために生まの質料を供給することである。他方、自己触発の機能は、これらの質料を時間という条件に従って結合することである。つまり自己触発は、外的触発がそうであるように所与の独立の源泉ではない〔後述する通り、アリソンの戦略は、外的触発と内的触発との区別を、「第1の概念化」と「第2の概念化」の区別にスライドした上で、アナロジーを擁護することに存すると思われる〕。

[自己触発を形象的総合と等置することから生じる二つの問題点]

カントは§24で、自己触発を形象的総合と等置している。これについて二点問題がある〔後述するように、これらの問題が生じるのは§24で問題となっている第一の意味における自己触発を、われわれの懸案の第二の意味におけるそれと混同することに由因している〕。一、対象の外的感官への影響(外的触発)と悟性の内的感官への影響(B154, 自己触発)にはほとんど共通する点がなく、それゆえ両触発のむしろディスアナロジーが強調されているようにみえる。

二、形象的総合は内的経験に特有の条件ではない[から等置は成り立たないと思われる]。というのもB版演繹の議論は、内的/外的直観の区別とは独立だからである。あらゆる現象は心の変容として内的感官に属するのであって、ここで扱われているのはその点である。

3 観念性テーゼの別の試み
[自己触発の二つの意味を区別し、それによって上記の問題を解消する]

自己触発の二つの意味を区別すべきである。自己触発は第一に、超越論的総合と等置され、これはあらゆる経験の条件として役立つ。第二に覚知の経験的総合と等置され、これは内的経験の条件として役立つ。(Vgl. 「第一の適用」B152)

敷衍しよう。内的経験の創設のために要求される特殊な自己触発(第二の意味のそれ)は、§24の脚注に示唆されている。第一の概念化にさいして、与えられた諸表象は対象に連関づけられる〔外的経験〕。第二の概念化にさいしては、これらの諸表象それ自身が対象になる。かくして、自己知が自己触発を要するという主張は、心は諸表象を対象として把握するためにそれらを再概念化しなければならないという主張に帰着する。

これを承けると、自己触発と内的感官の対象との関係も明らかになる。心の内容が対象として表象されるのは自己触発によってのみであるという意味において、内的感官の対象は自己触発の所産なのである。自己触発はしたがって内的経験にとって構成的である。これは超越論的総合が経験一般にとって構成的であるのと同様である。さらに、空間=外的感官の形式が、それに従って心が対象を外的なものとして表象する形式であるのと同様に、時間=内的感官の形式は、それに従って心が諸表象を対象として表象する形式なのである。内的経験の対象は従って、超越論的な意味において現象である。

pp. 307-17

第11章 理性と仮象

1 理性

カントは、理性の論理的・三段論法的使用とその実在的使用とは、理性の一般的機能の二つの表現とみられねばならないと示唆している(A229/B355-56)。我々は、まず理性の一般的機能から始め、その実在的使用へと進み、最後に超越論的理念およびその形而上学的演繹を論じよう。

A 理性一般

[悟性と理性――悟性原則と理性原理、悟性統一と理性統一]

理性の機能は、悟性によるばらばらの所産(諸判断)を、首尾一貫した一箇の体系へともたらすことである。理性は知識の完成を目指している。

敷衍しよう。悟性の原則は、感性的直観ないし可能的経験との関係においてのみ総合的な認識を産出するのであった。他方、理性――原理の能力(A299/B356)――の原理は、概念のみから・直観に訴えることなく総合的認識を産出する(A301/B357-58)。一方で悟性が、直接的に直観に関係する一階の能力だとすれば、理性は悟性の所産に関心する二階の能力である(Vgl. A302/B359)。理性の目指す統一とは悟性による断片的な諸認識〔=諸判断=諸悟性統一〕を単一の原理のもとにもたらすことに他ならない。論弁的な人間悟性はそうした全体の理念を目指しているのである。

B 理性の実在的使用

[間接推論における理性の機能が、理性の原理への手引きを与える]

理性は論理的使用しかもたないのだろうか、すなわち与えられた諸認識を体系付けることしかできないのだろうか? それとも知識の独立の源泉としても役立つのだろうか? この問いは、〈理性は、直観ないし経験可能性との連関から独立にアプリオリな総合的知識を算出しうる原理をもつかどうか〉という問題に等しい。ここで、理性の論理的・三段論法的機能が、理性に特有の超越論的原理を発見するための手引きを与える。理性の論理的機能とは間接推論をなすことである。間接推論とは、〈条件づけられたものとしての判断を、条件としての他の判断へと包摂することを含む推論〉を意味する。

次のような推論を例に採ろう:あらゆる人間は死すべきものである/カイユスは人間である/カイユスは死すべきものである。大前提における規則は、「あらゆる人間は死すべきものである」というものである。規則の条件、すなわち〈その下で当の規則が適用されるような条件〉とは、それが人間であることである。 小前提は、カイユスがこの条件下に包摂されると断じて結論を導く。「規則の条件〔それが人間であること〕の下に立つもの〔カイユス〕はまた規則自身〔あらゆる人間は死すべきものである〕の下にも立つ」(JL: 120)。

間接推論は、〈条件付けられた認識のために無条件的なものを見いだし、悟性の統一を完結せよ〉という論理的格率へと導き、さらにこれが「条件づけられたものが与えられているときには諸条件の全系列もまた与えられている」という理性の原理へと導く*1。この原理は、〈あらゆる条件付けられたものに対する諸条件の完全な集合〉の実在性という形而上学的な想定を含む。それ以上に条件を遡行することができないので、この集合は無条件的なものである。

[理性の第一原理に従属する諸原理が、諸理念を与える]

さらに、この原理は複数の従属的諸原理の源泉でもある。そうした諸原理が、〈条件の諸タイプからそれらの無条件的な根拠への上昇〉を支配する。各々の場合で、無条件的なものは、それが根拠づける条件のタイプによって考えられる。これが超越論的な諸理念に他ならない。

C 理性概念としての超越論的理念

[その総体性においてみられた条件]

超越論的理念は推論プロセスから生じ、このプロセスの最高点(無条件的なもの)が考えられうる様々な仕方を特徴づける。このことは、条件づけられた認識からその条件への上昇に関わる推論形式が、超越論的理念の発見の手引きを与えることを示唆する。

別言すれば、三段論法的推論と〈超越論的理念へと導く形而上学的推論〉との双方において働いているのは、理性の一箇同一の機能――与えられた条件付けられたものに対して諸条件の総体性を探し求めること――にほかならない。カイユスが〈人間であること〉を介して死すべきものと論定されたように、人間は動物であることを介して生物であると論定され……こうして〈条件がその総体性において見られる〉という観念が生じる。ここで総体性とは論理的機能としての全称性に他ならない。

[総体性においてみられた条件から諸条件の総体性への移行は適切である]

A322/B379の論議は二つの移行を含んでいる。第一に、その総体性(論理的機能としての全称性)においてみられた条件から、諸条件の総体性(全体性あるいは総体性カテゴリー)への移行。第二に、諸条件の総体性から、与えられた条件づけられたものに対する諸条件の総体性(理性の超越論的概念)への移行である。

順に見てゆこう。第一の移行は、論理的機能からカテゴリーへの移行を反映している。論理的機能の作動する一般論理学のレベルでは、関心は、判断を構成する諸概念の外延間の関係にのみある。従って概念の外延〔人間〕はその総体性において与えられたものとみなされる*2。あるいは同じことだが、条件〔それが人間であること〕がその総体性においてみられる。推論が妥当であるならばそうでなければならない〔さもなければ大前提が思考されえない〕。対して、超越論的論理学あるいは直観の総合のレベルで作動するカテゴリーは、外延の規定に関心している。今の例ではこれは、人間概念下に包摂されるx(カイユス、ソクラテス、等々)の完全集合に相当する。それゆえこれは判断において表現された断定のための諸条件*3の総体性の総合の思考を含む。

[諸条件の総体性と〈条件づけられたものに対する諸条件の総体性〉との区別]

カテゴリーから理念への第二の移行はむしろ、全体性ないし総体性カテゴリーと理性の超越論的概念との区別を指摘しているととるべきである。カントのポイントはこうである。カテゴリーとしての総体性は、あらゆる個別者がある概念の外延下に包摂されるという意味における全体性と等値である。他方、理性によって思考される総体性は、条件づけられたものとして見られるものによって前提される諸条件の集まりの完全性を指示する。従って前者は経験的な・帰納に基づく普遍性を要求するにすぎないが、後者は考えうるconceivableあらゆる諸条件を含む。

諸条件の総体性は――何らかの条件づけられたものとの連関を持つから――条件づけられたものとその諸条件との関係を無条件的なものへと拡張することに存する。換言すれば、理性の想定上の実在的ないし超越論的機能は、悟性によってばらばらに思考された〈条件づけられたもの〔カイユス〕と諸条件〔人間であること〕との関係〉を、これら諸条件の総体性という理念的目標へと拡張することに他ならない。

これに対しては次のような反論がある。

*1:本章II節Bを参照

*2:他方「死すべきもの」の外延はその総体性において与えられたものとみなされる必要はない。その一部が人間の外延を含めば十分である。

*3:上の注に同じ。