Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「超越論的演繹」(2)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第7章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 162-171).
[解釈の骨子]

われわれの解釈の特徴は、二つの部分においてカテゴリーに割り当てられている認知的機能を鋭く区別することにある。第一部分におけるカテゴリーの機能は、感性的直観一般の対象の思考のための規則、すなわち判断のための論理的規則であることである。これが、第一部分の議論が、人間感性の特殊の性状を捨象して感性的直観一般に関わっていることの理由である。第一部分はしたがって、〈統覚の客観的統一へともたらされるいかなる表象も、その際判断において客観へと関係づけられており、そのようなものとして必然的にカテゴリーのもとに立つ〉ということを示す。

対して第二部分は、カテゴリーが人間感性の条件下で与えられるいかなるものにも適用可能であることを示す。このことは、カテゴリーが〈あらゆる所与がその下で経験的意識に入る条件〉としての非論弁的機能をも有していることを証明することによってなされる。すなわちカテゴリーを対象の思考ではなく知覚に結びつけることによってである。

[ヘンリッヒ解釈との相違]

ヘンリッヒの解釈との相違は、件の不安の処理の仕方を説明することによって示されるだろう。彼によれば、第一部分は、一定の範囲の直観(すでに統一を有しているそれ)について不安を取り除く。第二部分は、すべての直観について取り除く。対してわれわれの解釈では、第一部分は不安を手付かずのままにする。というのも、もっぱら対象の思考の条件に関わるからである。不安は第二部分で取り除かれる。

1 統覚、総合、客観性

A 統覚の超越論的統一:原則とその分析性

統覚の原則――これは第一部分の第一原則であり、§20の暫定的結論はこの論理的帰結である――は少なくとも三つの論点を含んでいる。第一に、主観の個別的にみられた各々の表象について、各々の表象が私にとって何ものかであるためには、すなわち私に対して何ものかを提示するためには、それを私のものと考え得るのでなければならない。これが不可能な表象は私に対して何ごとも示さないからである。

二、主観の集合的にみられた諸表象について。集まると一つの複合的思考を構成する各々の表象ならば、複数の思考主観に割り当てられることが可能だが、思考そのものははそうではない。思考は単一の主観によって思考されねばならない。

一と二を合わせると第三の論点になる。すなわち、(2)複合的思考の(1)構成要素は単一の思考主観への帰属可能性に備える(allow for)仕方で結合されねばならない。これはそれらの構成要素が総合的統一を構成することを内含する。

この原則の論証は次のように進む。(2)単一の複合的思考は、単一の思考者を論理的に要求するので、(1)そうした思考の構成要素の各々は同一の思考主観に帰属可能でなければならない、(a)そしてこの思考者はおのれの同一性に気づき得るのでなければならない。――aは、多くの別々の表象が単一の主観の思考において、その表象として統一される可能性の要件であり、いわんやそれらが単一の複合的思考を構成する可能性の要件である。

[分析性の問題。分析的命題:「諸思考が自己に帰属される⇒諸思考は総合的統一にもたらされる」]

カントは統覚の統一の原則を分析的であると言ったり総合的であると言ったりしている。精確には、分析的であるのは次の命題である。

何らかの与えられた直観におけるあらゆる私の表象は、〈私がその下でのみそれらの諸表象を私の諸表象として同一的自己に帰することができるところの、それゆえ統覚において総合的に結合されうるものとして我思うという一般的表現によって総括しうるところの、そうした条件〉に従わなければならない (B138)

[つまり、与えられた直観におけるあらゆる私の表象は、総合的統一をなすのでなければならない。] しかしこの命題はそもそも真だろうか? 私は、私の同一的自己に総合的統一を構成しない諸々の思考を帰することができるのではないか:例えば、カントの統覚原則についての困惑と、レッドソックスの試合内容についての関心とのように。答えは、それらを考えているとき、私はそれらを総合的統一にもたらしているのだ、というものである。実際私は、同じ働きにおいてそれらを総合的統一にもたらすことなしには、それらを同一的自己に帰することができない。したがって、それらが総合的統一にもたらされることは、別個の諸思考を同一的自己に帰属する可能性の条件なのである。これは、思考が単一の思考主体に帰属可能であるということがそうした総合的統一の条件であるのと同様である*1

ではこの命題はいかなる概念の分析的命題なのか? 「論弁的思考」概念のである(vgl. B407-08)。その同一性がその思考の総合的統一と不可分であるのは、論弁的思考――直観の多様を概念へともたらす思考――の主観であるがゆえである。

[総合的命題]

対して総合的命題とされているのはこうである:

あらゆる異なった経験的意識〔=知覚〕は単一の自己意識〔=「超越論的意識」あるいは「根源的統覚としての自己自身の意識」〕において結合されねばならない (A117n)この命題が総合的であるのは、自己意識が、時間的に異なった諸知覚の必要条件であると述べているからである。対してB版演繹における統覚の議論では直観形式が捨象されているので、先ほどの命題は総合的命題ではない。

B 総合と総合の意識:不毛さなしの分析性

B133-34は二つの主張を含んでおり、これらが合わさって、統覚の分析的統一は総合的統一を前提するという主張を構成する。(1) われ思うの同一性の意識は総合を含む。(2)この意識はこの総合の意識によってのみ可能である。(1)については上で見た。

[統覚が総合=所産の意識を要求するのは、さもなければ多様な自己が存在することになってしまうからである]

(2)について。ここでの「総合」には二義性がある。(p)働きあるいは(q)その所産を指示する。カントは二つの意味を意図しているように見える。(q)所産と解するならば、主張に困難はない。二つの表象のみの場合を考えよう。A を思考する私と B を思考する私との同一性の意識――これがなければ2つの自己が存在することになる――は、AとBとを合わせて考えることを要する。ここで、単一の意識はこれらの表象の結合によってのみ可能であるのみならず、それ自身これらの結合の所産である*2。それゆえこの意味においては、統覚――〈同じ「我思う」〉の意識――は、必然的に諸表象の総合の意識を含む。

[統覚が総合=働きの意識を要求するのは、そこ以外に同一性を意識する場がないからである]

総合を(p)働きと解するならば、主張は問題含みとなるが、総合の働きの意識はカントの統覚の理説からは排除できない特徴である。

注意。総合の働きの意識の必然性はとりわけ悟性の働きに当てはまり、想像力の働きには当てはまらないように思われる(A108)*3。したがってカントが、その意識を必ずしも含まないような総合に言及するとき(§15)、それは想像力の総合と解するべきである。

ではなぜ諸表象の多様に関してのおのれの同一性の思考は、諸表象の総合の意識に依存しているのだろうか? (注意。「働きの同一性」(A108)は、思考の働きの必然的統一と解されるべきである。単一の複合的思考は、単一の思考者を要求するのと同様に、〈そこにおいて思考の全構成要素が総合的統一へともたらされる思考の統一された働き〉を要求する。 )

問いに答えよう。我思うの無内容さゆえに、その働きの同一性の意識なしには〈それによって思考主観がおのれの同一性に気づきうるもの〉は何もない。別言すれば、Aを考える私と B を考える私との同一性の意識は、AとBを表象として共に考える働きの同一性の意識にしか存しえない。それゆえに総合の意識は統覚の必要条件なのである。統覚が諸表象の自己帰属の単なる可能性のみを要求するにも関わらず、である。

[統覚と総合の結びつきから、統覚と悟性のそれへ]

われ思うの同一性の意識(統覚)は総合の意識を要求する、という以上の主張が、統覚の分析的統一は総合的統一を前提にしてのみ可能であるというテーゼ(B133-34)にほかならない。さて、この箇所とその脚注でカントは、統覚と悟性を結びつけ始めている。悟性について我々は、全ての一般的概念が分析的統一――単一の表象において諸表象の多様に共通のものの思考〔諸徴表〕を含むこと――であり、また概念は一連の論理的活動――比較、反省、抽象――によって産出されるということを見た。こうした悟性(分析的統一と論理的活動)は統覚とどう結びつくのだろうか?

 

*1:分析的命題はこう述べている:「諸思考が同一的自己に帰属される⇒総合的統一にもたらされる」。なお、この逆は真ではない(p. 169)。アリソンがこれと同様と述べている命題はこうである:「諸思考が総合的統一にもたらされる⇒諸思考は同一的自己に帰属可能である」

*2:この1文は怪しいと思うが、仮に誤りでも論旨に影響はないと思う

*3:私にはこの箇所からそうしたことは読み取れなかった。