Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「人間の認識の感性的条件」(4)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第5章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 116-130).

D 超越論的究明(いわゆる「幾何学からの議論」について)

空間の超越論的観念性の主たる支持を与えているのはカントによる幾何学についての見解である――これは超越論的観念論を退けるのを容易にする――としばしばみなされてきたが、それは誤りである。たしかにカントは、論証を幾何学から空間の超越論的観念性へと進めたし、彼の空間理解は幾何学についての見解と密接に結びついてもいるが、空間の超越論的観念性は幾何学の見解に論理的に依存してはいない

超越論的究明の公式のタスクは、〈いかにしてアプリオリな表象〔=純粋直観〕が一連のアプリオリな総合的認識を根拠づけうるか〉を示すことであった。超越論的究明はしたがって、一連の総合的アプリオリな知識(P)は特定の属性をもつ表象(Q)が存在するときに限り可能であるということを示すことをもくろんでいる。QはそれゆえPの必要条件である(P→Q)。ここで、幾何学と空間表象とは、PとQの関係に立つ。つまり、幾何学が関わるのは空間表象の分析とであり、空間の観念性それ自体の論議とではない。

しかしカントは次のように続ける。

ところで、客観自身に先行し、だから客観の概念がそこではアプリオリに規定されうる或る外的直観は、いかにして心に内在しうるのであろうか? 明らかに、この外的直観が、〈客観によって触発され、このことによって客観の直接的表象を、すなわち直観をうる主観〉の形式的性質として、たんにこの主観のうちにその座をしめるかぎりにおいて、それゆえ外的感官一般の形式としてのみその座を占めるかぎりにおいて以外ではない。(B41) 

確認しよう。空間表象のアプリオリで直観的な性格が幾何学の可能性の必要条件なのであった。そしてここでは、〈そのことが、空間自身は外的感官の形式でなければならないということ〔空間の超越論的観念性〕を内含するということ〉が主張されている。[つまり、幾何学→空間の性格→その超越論的観念性、と論議が進んでいる。]

二点注意すべきことがある。第一に、空間の超越論的観念性は、空間についての総合的アプリオリな学としての幾何学のたんなる必要条件であり、十分条件ではない〔幾何学→空間の超越論的観念性〕。それゆえ幾何学の否定は空間の超越論的観念性の否定を内含しない。第二に、幾何学からの論証は、空間表象のアプリオリで直観的性格への訴えを介してのみ進む。それゆえ後者が独立に立証されうるならば、幾何学への訴えは不要である。ところで、空間表象のアプリオリで直観的性格はまさに形而上学的究明が示したことであった。したがって、観念性論証は超越論的究明ないし幾何学の性状についてのいかなる考察をも完全にバイパスすることができる。

II 観念性論証

形而上学的究明および超越論的究明の直後に、カントは空間表象の内容について二つの結論を導き、空間自身は経験的に実在的であり超越論的に観念的であると主張する。

A カントの結論

第一の結論は否定的に表現される。いわく、空間表象は、〈物自体として考察される諸物〉に述定されうるいかなる属性(含関係的属性)をも含まない。というのも、そうした属性はアプリオリは直観されえないからである。

第二の結論は肯定的である。空間表象の内容、すなわち空間表象に関してtherein現実に表象される(より精確には現前する)ものは、人間感性のたんなる主観的条件である。当該段落の残余は、この結論がアプリオリな知識の可能性を理解するにあたっての好ましい帰結をもつと断じている。

続く段落で、空間の超越論的観念性と、それの経験的実在性との両立可能性が断定される。観念性テーゼとは、空間的諸述語は「感性の客観」すなわち現象に制限されているというものである。相関的に、経験的実在性テーゼとは、これらの述語が外的現象に適用できるapplicableというものである。

二つの主たる問題がある。カントは、第一・二の結論で、それぞれ(1)何を、(2)いかにして証明しようとしているのか?

(1) 何を? ――二観点解釈によれば、第一の結論は存在論的(超越論的実在論的)な選択肢を拒否し、第二の結論は超越論的観念論の理説を断じている。

(2) いかにして? ――アプリオリ性と主観性との結合からであるとする解釈がある。しかしこれでは第一に空間の直観的性状が余計なものとなり、第二にいかにして主観的起源が超越論的観念性を正当化しうるのかが不明である。続く節で検討しよう。

B 論証を探し求めて

プロレゴメナ』が、(2)に対する手掛かりを与える。問題は、アプリオリとされる直観の〈内容ないし志向的対象〉に関わる。つまり、そうした直観は何の直観なのか? 

当該箇所の主張はこうである。アプリオリな直観はそれが感性の形式を含むないし心に与えるpresentときそのときに限り可能である(Pro 4: 282)、と。論証は二段階から成っている。第一は、アプリオリな直観は、その内容が物自体の規定(内的であれ関係的であれ)であれば不可能であるis not possible ifと主張する。第二は、そうした直観は、その内容が感性の形式ならば可能であるis possible ifと断じる。それゆえ、〈我々のアプリオリな直観=時空表象〉の内容である時空とは〔アプリオリな直観が存在し、それが内容をもつのだとすれば、〕感性の形式に他ならない。

論証の「不可能」部分(The “Not If” Portion)

「時空表象は物自体の規定ではありえない、なぜなら前者はアプリオリであるが後者はアプリオリには直観されえないからである」というこの論証はもとより、前者がアプリオリであるという前提以上に強力ではない。しかしこの前提は正しいだろうか? 空間表象は(a)直観的で(b)アプリオリでない限り機能しえないのだろうか? しえない。(a)空間表象は直観的でなければならない。[なぜなら空間表象は、全体が部分に先行する点において、また無限の含み方の点で、概念と異なるからである(cf. 本章IB)。] (b)また空間表象はアプリオリでなければならない。なぜなら、対象の経験の可能性の条件として機能するとされる或るものの表象が、まさにその対象の経験にその源泉をもちうるという想定には矛盾が含まれているからである。というのも、それは対象の経験が当該の或るものなしに可能であるということを内含するからである。

注意。時空が物自体の規定であるという可能性は排除されてはいない。示されたのは、そうした超越論的実在論的な時空は、我々の表象の内容を与ええず、それゆえ経験的判断や数学で指示されるような空間ではありえないということのみである。

論証の「可能」部分(The ”If” Portion)

まずは術語を整理しておこう。「現象の形式」「直観の形式」「感性の形式」「純粋直観」はそれぞれ異なる。

現象の形式。「現象」は、経験において現実に与えられる(↔たんに思考される)諸対象を指示する。「形式」とは、「質料」を条件づけるないし規定する条件を意味する。現象の形式とは、そのために現象の諸要素が直観において秩序づけ可能になるないし相互に関係可能になるような現象の特性である(B34)。現象の形式それ自身は秩序ではなく、そうした秩序の条件ないし枠組みである。アプリオリ性の第一論証はこの意味での空間表象を扱っていた。

直観の形式は、直観される諸対象の形式的特性ないし構造を、あるいはそれらを直観する様式ないし仕方を指示しうる。前者は「現象の形式」と等値であり、存在論的に中立的である〔「感性的に直観された対象の形式」ではない〕。後者は他方、心の受容的能力の性格に他ならない。

感性の形式は、感性的に直観する形式(「受容性の形式」。以下「感性の形式1」)を、あるいは感性的に直観される対象の形式(以下「感性の形式2」)を指示する。感性の形式2は感性の形式1を含む。感性の形式1こそが、カントの結論が確立しようとしているものである。

以上を踏まえて論証の「可能」部分を定式化するとこうである。〈与えられた直観の内容が、心の構成(直観する形式。感性の形式1)のゆえにのみ直観の対象(直観されるもの)に帰せられるような直観の対象の形式ないし形式的特性(感性の形式2)である〉ならば、その直観はアプリオリでなければならない。というのも、第一にそうした直観の内容は普遍的かつ必然的だからである。第二にその源泉は、〈対象自身にも、それらの対象による心の触発によって生み出されるいかなる感性的所与(感覚)にも〉存さないからである。第二の理由のゆえにこれは純粋である、つまり感覚から独立である。

したがって、仮に空間表象の内容が感性の形式2であるとすれば、空間表象はアプリオリでなければならないことが示される。しかしこの仮定は真か? 

二つのことが問題になる。第一に、空間表象の代案が網羅的であるかどうか。第二に、空間表象が感性の形式であっても、空間自身は物自体の属性であるかもしれない(次節)。

一、網羅的である。なぜなら、超越論的実在論と超越論的観念論は相互に排他的で網羅的なメタ哲学的な立場だからである。

C 無視された代案という問題

二、空間自身が物自体の属性であるという可能性を排除するのは物自体の不可知性に反するのではないか? 感性の形式2としての空間と物自体としての空間とが、(1)数的に同一である、(2)質的に同一である、(3)類似しているという3つの代案を駁論しよう。

(1)感性の形式とは、感性を感性たらしめるものであり、つまり感性をそれ以外のすべてから区別するものである。それが物自体の規定と数的に同一であるというのは[仮にそうだとすれば、区別できていないことになるから、]不合理である。

(2)感性の形式2は心に依存しているが、物自体の規定は心から独立である。それゆえ、両者は質的に同一でもありえない。