Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「人間の認識の感性的条件」(1)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第5章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 97-108).

第5章 人間の認識の感性的条件

[存在論への代案としての時空論]

超越論的感性論の冒頭で外的・内的感官をそれぞれ空間・時間に紐づけた直後に、カントは突然、時空の本性を問う。四つの可能性が導入される。時空は次のいずれかである。(a)現実的存在者(実体)、(b)諸物の規定(偶有性)、(c)諸物自体にも帰属するであろうzukommen、諸物の関係、(d)たんに直観の形式にのみ付着するものhaften、したがって、時空という述語がそれなくしてはいかなるものにも付加されbeilegenえない私たちの心の主観的性質にのみ付着するもの(A23/)。

(a)(b)がニュートン的な、(c)がライプニッツの、そして(d)が、超越論的感性論の主目標である。また、(a)(b)(c)は存在論的テーゼだが、(d)は存在論的テーゼとしての代案ではなく、むしろ存在論への代案である。いわく、時空はそれらの実在性からではなく、むしろ認知的機能(内的・外的感覚の形式ないし条件)から理解されねばならない。

本章の目的はこうした読みを実証し擁護することである。第一節は時空表象のアプリオリで直観的な性状と、アプリオリな知識の源泉としてのそれらの機能との分析を扱う。第二節はこうした分析の帰結を解釈し評価する。

1.時空の表象

時空表象の分析は「形而上学的」および「超越論的論究」に分けられる(第二版)。前者は表象がアプリオリな起源をもつことを証明する。後者はいかにしてこの表象が他のアプリオリで総合的な知識の可能性を根拠づけるかを示す。

形而上学的論究は二つの目標をもつ。第一に時空がアプリオリな起源をもつことを示すこと(アプリオリ性テーゼ)。第二にこの起源が感性に存する――なぜならこれらの表象は概念的ではなく直観的だから――ことを示す(直観テーゼ)。

我々はA項でアプリオリ性テーゼを、B項で直観テーゼを、C項で所与性givennessの問題、つまりいかにして時空が悟性の概念的活動と独立にアプリオリな直観に与えられているのかという問題を、D項では超越論的論究とその観念論への含意を扱う。

A アプリオリ性テーゼ

形而上学的論究の第一・第二論証はアプリオリ性の同じ概念理解conceptionについての二つの独立した証明であると解したい*1

アプリオリ性の第一論証

1. 空間は、外的な諸経験から抽象されたabziehenいかなる経験的概念でもない。なぜなら、或る種のgewiss諸感覚が私の外なる或るものと(言いかえれば、私がしめている空間の場所とは別の空間の場所をしめている或るものと)連関づけられるbeziehenためには、また同じく、私がそれらの感覚を、互いに分離しaußer einanderかつ互いに並存しているund neben einanderものとして、それゆえたんに異なっているのではなく、異なった場所にあるものとして表象しうるためには、空間の表象がすでにその根底になければzum Grunde liegenならないからである。したがって空間の表象は外的現象の諸関係から経験をつうじて借りてこられたerborgtものではなく、この外的経験がそれ自身前記の空間という表象によってのみはじめて可能である。(/B38)

[第一論証は反経験主義的・反ライプニッツ的である。また認知的条件の分析を含んでいる]

次のように解してはならない。諸物が私の外にあるという先行的気づきや、諸物が相互に外的であるという知覚から、空間表象が由来するのだ、と。というのも、いずれの関係の思考も空間表象を前提しているが、これは(経験主義的である上に)論点先取だからである。

カントの議論はトリヴィアルではない。というのも、これの主張するところでは、諸物を空間的なものとして表象するためには空間が前提されねばならないのではなくて、経験主義者がそこから空間が由来すると主張する諸関係を知覚する可能性の条件として空間が前提されねばならないからである〔つまりこれは反経験主義的な主張だからである〕。

また、カントの議論は認知的な意義epistemic force〔認知的条件の分析であるということ〕を欠いてもいない。というのも、これは、空間表象が、外的経験の条件であるがゆえにアプリオリであると主張するからである*2

くわえて、この論証は反ライプニッツ的である。ライプニッツにとって時空の観念を構成するために第一の与件である秩序ないし関係の表象が、すでにして空間における諸物の秩序ないし関係と解されねばならないからである。

アプリオリ性の第二論証

2.空間は、すべての外的直観の根底にある一つのアプリオリな必然的な表象である。人は、空間の内にいかなる対象も見いだされないということを十分考えうるとはいえ、いかなる空間も存在しないということについては、けっして表象することができない。したがって空間は、諸現象の可能性の条件とみなされるのであって、諸現象に依存する一つの規定とみなされるのではなく、だからund外的な諸現象の根底に必然的にある一つのアプリオリな表象である。(/B38-39)

[論証の図式]

「空間は、すべての外的直観の根底にある一つのアプリオリな必然的な表象である」という主張が、第二文の二つの前提――人は「いかなる空間も存在しないということについては、けっして表象することができない」一方で「空間の内にいかなる対象も見いだされないということを十分考えうる」――から導出される。これは次の図式schemaを示唆する:

もしA, B, Cがxなしでは存在し(表象され)えず、他方xはA, B, Cとそれら相互の関係となしで存在することができる(あるいは表象されることができる)のであれば、xはA, B, Cとそれら相互の関係との可能性の条件とみなされねばならない。

[第一前提の解釈]

第一前提は、心理学的な不可能性でもなく(そうだとすれば結論を支持しがたい)、論理的な不可能性でもない(というのも、外的感覚の形式が空間でないような存在者はありうる――物自体の理説がこの可能性を要求する――から)。我々は外的現象を、それらを空間内にあるものとして表象する以外の仕方で表象することができない、ということである。空間の除去不可能性は我々と同じ感官形式をもつ存在者の外的直観にのみ適用される(↔論理的解釈)。また、この論証は認識論的である限りにおいて、たんに心理学的なのではない(↔心理学的解釈)。

[第二前提の必要性と解釈]

さて、なぜ第二前提が必要なのか? それは、我々が現象を時空内においてでしか考ええない(第一前提)ということからは、時空がアプリオリであることは帰結しないからである。第一前提のみでは、我々は現象を考えることなしに時空を考えることができない(↔第二前提)可能性が排除されない。この場合、こうした表象は、時空内の現象の複合的表象から抽象によって形成された経験的表象である可能性が排除されない*3

では、第二前提の意味するところは何か? 空間論に先立って、カントはこう述べている。

それで、私が、物体の表象から、悟性が物体について思考するもの、例えば、実体、力、分割可能性などを、同様に、物体のうち感覚に属するもの、例えば、不可入性、硬さ、色などを分離しても、こうした経験的直観のうちからなお或るものが、すなわち、拡がりと形態が、私に残存する。これら拡がりと形態は純粋直観に属するのであって、この純粋直観は、アプリオリに、感官ないしは感覚の現実的対象なしですら、感性のたんなる形式として、心のうちに生ずるのである。(A20-21/)

これは自己完結的self-containedな議論というよりはカントがこれから示そうとしていることについての言明とみなすべきである。[したがってこれは第二前提の注釈を与える。] 「物体」という我々の経験的表象の感覚的内容と空間的内容とには非対称性があり、後者は前者の表象のアプリオリな条件であるという意味で認識論的に先立っている。[これが第二前提の意味するところである。]

[第一・第二論証の眼目の共通点。また、第二論証に固有の意義について]

第一論証の結論(外的経験は空間表象によってのみはじめて可能である)と第二論証のそれ(「空間は、すべての外的直観の根底にある一つのアプリオリな必然的な表象である」)が同じものであるというのはよいとすれば、両論証の差異は次の問いに帰着する。すなわち、第一論証は、外的経験〔外的現象の表象〕一般に関わる(その場合第二論証と等しい主張になる)のか、外的現象の諸関係についての経験にのみ関わるのか。仮に後者だとしても実質的な違いはない、というのが答えである。というのも、外的現象の諸関係は外的現象の表象〔外的経験〕の条件なので、両者の結論は共にこうだからである*4:空間表象は、外的現象に対して派生的でも同等でもなくその条件である、という意味でアプリオリである。

とはいえ第二論証は余計ではない。その意義は、時空表象は、経験的なものを捨象しても残る自身の内容をもつということ――これは第一論証では無視されていた――に注意を促すことである。第二論証は時空表象のアプリオリな身分を主張するのみならずそれらが純粋直観であるという主張の布石を打っているのである。

*1:アプリオリ性の二つの概念理解に関わる証明と解する論者もある。また、久保元彦(1987)は、第一論証が時空の形式性、第二論証がそのアプリオリ性を扱うと解する。

久保元彦「形式としての空間――「超越論的感性論」第二節、第一および第二論証の検討――」 - Dear Prudence

*2:久保は、アプリオリ性が形式性を介してのみ導かれることに注目し、形式探究こそがカント哲学の真髄であるという旨を主張している。

*3: “ In that case, however, these representations would be empirical, formed by abstraction from the complex representation of appearances as situated in space and time.“ しかしはたして「こうした〔時空〕表象は、時空内の現象の複合的表象から抽象によって形成された経験的表象である可能性が排除されない」のだろうか。否。時空表象が時空内の現象の表象から抽象されたものであるとすれば、それに対しては、時空内の現象の表象がすでにして時空表象を前提しているのだ、という第一論証の指摘がそのまま反論となるだろう。つまり、第二前提の必要性のアリソンによる理由づけは、第一論証によれば偽である。

*4:仮に第一論証が外的現象の諸関係についての経験にのみ関わるのであれば、第一論証がより基礎的な点に着目して、空間表象の条件性を導いた、とはいえよう。