Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「物自体と触発の問題」(3)『カントの超越論的観念論: 解釈と擁護』第3章

  • Allison, Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 63-75).

〔承前。〕カントは「フェノメノンとヌーメノンの区別」を第二版で実質的に書き換えた。超越論的対象への指示はなくなり、ヌーメノンの積極的な意味と消極的なそれとの区別が導入された。ただし、この区別は第一版におけるヌーメノンと超越論的対象との区別の再定式に他ならず、重要な教説の変化はない。

III. 触発

次のように思われる。一方で、カントは触発する対象を何らかの非経験的な仕方で特徴づけねばならない。他方で、彼は批判哲学の中心的な教えに違反することなしにそうすることができない、と。このジレンマをヤコービは「物自体の措定なしに私は[批判の]体系に入ることはできず、この措定とともにはとどまることができない」と表現した。

ファイヒンガーは、ヤコービ以降の論争の結果をトリレンマに整理した。

触発する対象によって、人は、

  1. 物自体を理解する;この場合ヤコービのジレンマに直面する。すなわち、人は経験の範囲内でのみ意味をもつ実体性と原因性のカテゴリーを、経験を超えて適用せねばならない。
  2. あるいは空間内の対象を理解する;これは現象、それゆえたんなる我々の表象なので、我々が触発にもとづいて初めてもつ表象が、同じ触発の源泉であるという矛盾に陥る。
  3. あるいは、物自体による超越論的触発と空間内の対象による経験的触発の二つを認める(二重触発)。超越論的自我にとっての表象がのちに経験的自我にとっての物自体――その触発が自我のうちに、対象の超越論的表象に加えて、同じ対象の経験的表象を産出する――としても役立つという矛盾*1に陥る。

我々は[1を採り、かつ]ヤコービのジレンマの第二の角を拒否する。すなわち、物自体概念を形而上学的にではなく方法論的に解すれば、物自体概念とともに批判の体系に入り、またとどまることができる。

事情はこうである。心を触発するないし心に与えられる何ものかは、人間感性のア・プリオリな形式(時空)に従ってのみ、認識内容の一部となる。それゆえ、心を触発する何ものかは、(時空的存在者としての)経験的記述のもとに取り込まれることができない。それは、人間感性との連関を離れて考察された対象に、この連関にもとづく特徴を割り当てることであるからだ。したがって、そうした対象の思考は、非感性的な、それゆえ「単に叡知的なintelligible」何ものかの思考である(この思考はカテゴリーによってなされるが、この機能はたんに論理的であり、経験的に到達不可能な存在領域の存在措定を含みはしない)。

[形而上学的にではなく方法論的に解するということは]別言すればこうである。カントは語りえぬものを語ろうとしていたのではなく、語りうるものの限界を定義しようとしていた。そのために、「物自体」「ヌーメノン」「超越論的対象」といった、超越論的哲学の「メタ言語」を導入する必要があったのだ。

*1:超越論的自我云々がわからない。ただ、同じものが、表象でありかつ物自体でもあるという矛盾のことではあろう。