Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

アリソン「問題への導入」『カントの超越論的観念論:解釈と擁護』第1章 Alison "An introduction to the problem" In Kant's transcendental idealism: an interpretation and defense (pp. 3-19).

第1章 問題への導入

現象/物自体を「二対象」ないし「二世界」とみなす伝統的カント解釈は、ほとんどの場合、超越論的観念論を、実行可能なviable哲学的立場としては棄却する。一部の解釈者は、カントの議論の妥当な部分を超越論的観念論から引き離すことによってカントを救おうとした。これに反して本書では、超越論的観念論を、依然として真剣な考察の価値のある実行可能な哲学的立場であると論じる。基礎的テーゼ――これは超越論的観念論の実行可能性とは独立である――は、『批判』の事実上あらゆる側面が緊密に連関しているというものである。つまりカントの根本的諸主張が超越論的観念論から分離可能であるということは頭から否定される。

本章の第1節は「反観念論的」解釈と呼べるものを素描し、第2節は超越論的観念論の概念を略述し、それは形而上学的というよりは認識論的ないし「メタ認識論的」なものとして見られるのが適切である――というのも、それは人間の認識の論弁的性状の分析にもとづいているから――と論じる。

1. カントの反観念論

A. 反観念論という観念論〔カントは反観念論をやろうとして観念論に陥ってしまった、という批判〕

[「反観念論的」解釈では、カントは現象主義を乗り越えようとして、一方で物自体という不整合な概念を措定してしまい(ストローソン)、他方で我々は対象の真の在り様を知りえない(プリチャード)ことになってしまった。]

[物自体の措定への批判]

多くの解釈者によれば、超越論的観念論は、心によって経験されるものの現象主義的な説明と、認識不可能な存在者の付加的集合の仮定とを合併させたものである。後者(物自体)の仮定は、いかにして心が表象あるいはその素材を得るかを説明するために必要だと考えられる。それゆえ、我々がそれについて語る――それが存在し我々を触発するということを含めて――権限を否定する当の理論によって、物自体は存在すると想定されねばならない。

ストローソンによれば、カントは、第一性質から成る物理的対象の領域とその感性的現象(含第二性質)から成る心的領域とを対比し、心的領域を物理的対象による心の触発によって産出されるものとみなす、というモデルを悪用した。すなわち、当初のモデルでは物理的対象に属していた時空的枠組みを人間の心の主観的構成へと割り振った。その結果、人が「触発」について語りうるのは時空的枠組みに関してのみということになり〔↔当初のモデルでは時空的枠組みに関して語るので不十分な概念はなかった〕、不整合が生じた〔時空的枠組みを逃れている(ゆえに語りえないと同時にその存在が想定されなければならない)概念が生じた〕のである*1

[現象に関する批判]

超越論的観念論は、物自体の措定に加えて、その相補的な主張、すなわち我々は現象しか知りえないという主張への認識論的根拠についても[この主張では認識論的根拠がなくなってしまうと]非難される。いわく、我々が現象しか知りえないのであれば、次のようなジレンマに陥る:

(1)諸物は我々にとって空間的と思われるだけであるか、(2)現象すなわち単なる表象は真にreally空間的であるかである。前者は、対象が空間において延長し位置しているという我々による世界の意識が錯覚であることを含意する。後者は、心的なアイテムが空間において拡がりをもち位置しているということを要求し、明らかにおかしい。

この種の批判はプリチャードによって先鋭的に定式化された。彼によれば、現象についてのカントの考えは、我々はそれらが我々に現象するようにしか諸事物を知らない、という主張と、我々は諸物の特定のクラス――現象――しか知らない、という2つの異なる主張を混同している。カントが維持したいと望んだのは前者だったが、それからは、諸物は我々にとって空間的だと思われるだけであるということが導かれるため、彼は[我々は諸物の一部分ないし一側面を知るという]後者にシフトすることによって、上述のジレンマを避けた。プリチャードの批判の前提は、我々が諸対象をそれらが現象するようにしか知らないという主張は、我々が知るのはそれらが我々にどう思われるかであってそれらが真にどうであるかではない、というものである。それゆえに彼によれば、カントは心ならずもデカルト懐疑論者になってしまった。

B. 分離可能性テーゼ

超越論的観念論についての上述の理解への対応として採られたのが分離可能性テーゼである。ストローソンは、「分析的議論」――自己意識(あるいは経験の自己帰属)と公共的・客観的世界の経験との結びつきを証明することによってデカルト懐疑論を論駁することを中心とするもの――を超越論的観念論から分離しようとした。グヤーやラントンの解釈はストローソンの仕事から深い影響を受けている。

2. 認識の条件、論弁性、超越論的観念性

[認識の条件。それが心理学的/存在論的条件とどう違うか]

認識の条件(epistemic condition)ということで我々は、対象の表象のための必要条件、すなわちそれなしでは我々の表象が対象に連関しないあるいは客観的実在性をもたない*2ところの条件を意味する。この条件は、客観化する機能(objectivating function)を果たすので、「客観化する条件」とも呼ばれうる。

認識の条件は心理学的/存在論的条件の双方から区別される。ここで、心理学的条件とは、信念と信念の獲得とを規定するgovernsところの心の傾向性ないし機構であり(e.g. ヒュームの習慣)、存在論的条件とは、諸物の現存在の可能性の条件――それは諸物の心に対する関係と独立に諸物を条件づける――である(e.g. ニュートンの絶対時空)。

認識の条件と心理学的条件とは、「主観的」である――人間の心の構造と作用とを反映している――点で共通し、客観化する働きの有無について異なる。認識の条件と存在論的条件とは、客観的ないし客観化する点で共通し、諸物の表象に関わるか諸物の存在に関わるかで異なる。超越論的観念論に立ちはだかる根本的問題は、認識の条件が同時に主観的かつ客観的ないし客観化するか、ということをいかにして説明するか、というものである。

[認識の条件という概念はコペルニクス的転回を含む]

認識の条件とカントの観念論との結びつきを否定したがる解釈者たちは、認識の条件の例として、受容され処理されうるデータの範囲に関する、感官に備わった制限(e.g. 光の一定の波長)を挙げる。しかしそれは客観的妥当性ないし客観化作用を欠いており、それどころか客観的な対象〔光や感官など〕を――まさにそれらの客観性が説明されるべきであったのにも関わらず――前提している。そうした経験的条件が観念論を内含しないからといって、認識の条件が観念論を内含しないことにはならない。

実際のところ、認識の条件という概念は、対象という概念を、人間の認識や、対象を人間の認識が表象する仕方の条件に相対化することを含むので、その意味で観念論的コミットメントをもたらす。認識の条件が示すのは、人間の認識の条件を逸脱する諸物は存在しえないということではなくて(↔存在論的条件)、そうした諸物は我々によって対象とはみなされえないということなのである。

[超越論的観念論の基礎としての論弁性テーゼ。その三前提]

超越論的観念論は、対象概念を対象の表象の条件に相対化するのみならず、そうした条件を、人間の認識の論弁的性状の分析によって特定しもする。したがって、超越論的観念論は、人間の認識を論弁的なものと考えること(以下、論弁性テーゼ)に決定的に立脚している。

論弁性テーゼとは、人間の認識は論弁的である、つまり概念と感性的直観との双方を必要とする、というものである。(ストローソンに反して、これは自明ではない。)

[このテーゼは三つの前提から導かれる。第一に、]認識は対象が何らかの仕方で与えられることを要求する。つまり、対象は直観――それによって個別的表象が直接的に対象に連関するところのもの(A320/B377)――において現存する(/しうる)のでなければならない。(これは神の・知性的認識と人間の・論弁的認識とに共通の想定だと思われる。) [第二に、]直観には感性的直観――対象による心の触発に結果する――と非感性的・知性的直観――直観作用によって対象を産出する――の二種類しかない。有限な認識者たる人間は感性的である。[第三に、]感性的直観単独では対象の認識を産出するのに不十分である(cf. 分析論)。

[第三の前提について、]ここでは感性についての二重の教訓を述べるにとどめる。一方で感性は受容的であり認識への生まの所与を提供することしかできない(所与を秩序づけることはしない)。他方で論弁的認識を可能にするためには、感性は、概念化に適した仕方で所与を提供するのでなければならない(秩序づけられうる仕方で所与を与える)。後者がカントの観念論への基礎となる。

きわめて重要な点は、カントにとって(実際の秩序のみならず)秩序可能性すら、認識主観の寄与であるということである。これが感性についての(合理主義的のみならず)経験主義的な説明からの決定的な断絶である。彼は「私たちが対象によって触発される仕方を通じて表象をうる能力(A19/B33)」と感性を定義している。この「仕方」は感性的直観の一定の形式であって、これは触発する対象によってではなく人間の感性の性状によって規定されているのである。(さらに、[第2章以降で]見るように、感性的直観の形式がそれが悟性によって秩序づけられる可能性を条件づけている。)

〔第三前提に対しては、感性だけで認識には十分ではないかという疑義が投げかけられるが、それとは対照的に、悟性の働きを強調して、次のように問われるかもしれない:〕悟性がア・プリオリな形式ないし条件に妨げられていない生まの感性的所与に作用しうるのではないか。ーーこの筋書きで取りうる選択肢は二つである。第一に、感性が物自体としての対象を悟性に提供する。この場合いかなる真の自発性ないし「悟性の実在的使用」もなくなってしまう(e.g. 明晰化機能clarificatory function(ライプニッツ)、唯名的本質の創造(ロック)、生き生きとした印象の観念へのコピー(ヒューム))。第二に、それ自体として与えられるのは対象ではなく対象の思考に向けた所与――十分な認識を産出するために悟性によって統括されねばならないところの――である。この場合、時間秩序はそれ自体として与えられるものに属することになろうが、その場合諸状態を主観的にではなく客観的に秩序づける余地はなくなるだろう(cf. 「類推」)。両者を同一視すれば現象主義となり、後者を捨てれば懐疑論に、後者を維持すれば独断論となる。

[現象/物自体の二観点解釈(two-aspect reading)]

現象/物自体を存在論的に別個である二つの存在者の集合とみなす形而上学的モデルは論弁的テーゼを軽視している。我々は現象/物自体を、諸物を考察する二つの仕方(それらが現象する通りに/それ自体としてある通りに)と解する。すなわち、諸物をそれらが現象する通りに考察する際、我々はそれらを、それらが論弁的認識者に与えられる仕方で、つまり感性の形式と共に考察している。反対に、諸物をそれらの形式ないし認識の条件との関係を離れて〔それ自体としてある通りに〕考察する際、それは、何らかの内容をもつのであれば、何らかの純粋知性ないし「単なる悟性」にとっての対象として考察することに等しい。二つの仕方の考察を可能にするのは論弁的認識の感性的/知性的条件の質的な(超越論的な)区別〔論弁性テーゼ〕である。

注意。"two-aspect"の理論と呼ばれるものは、通常は形而上学的である(e.g. スピノザによる心身の説明や、デイヴィドソンの非法則的一元論は、二元論と唯物論への代案として提唱された)が、我々の理論はそれらと混同されてはならない。

[現象の認識の客観性。物自体の眼目。その思考の論理的性格]

我々は諸物をそれらが現象する通りにしか認識できないとはいえ、その認識は客観的である。というのもそれはア・プリオリな認識の条件によって規定されているからである。

また、純粋悟性を持ち出す際のカントの眼目は、思考が感性によって課された制限を越えるときに、人間悟性があたかも純粋悟性であるかのように進むということである。物自体の思考は完全に空虚なのではないが、しかしその内容は単に論理的(↔実在的)性格をもつに過ぎない。というのも、物自体を思考するとは、カテゴリーを実在化する感性的条件(図式)から離れてカテゴリーを用いることであるからだ。換言すれば、純粋カテゴリーによる諸物の考察は分析的判断をもたらしうるが、物自体についてのア・プリオリで総合的な知識はもたらしえない(したがって、ラントンに反して、我々は物自体が単に内的属性からなる真の実体であるということを知りえない)。

*1:こうした事情から、一部の解釈者は、時空的枠組みを物理的対象に返還し(感性論を拒否し)つつ、分析論を維持して、ア・プリオリで総合的な判断を維持する道を模索する、ということだろうか。

*2:カントでは、表象が客観的実在性を持つことは、それが対象と連関するということ以外ではありえない。なぜなら、さもなければいかにして表象がおのれ自身を越え出て客観的意義を獲得することが可能かを説明できないからである。(A197/B242) 例えば、ある状況において人間全員のもつ表象が一致することは、それ自体では客観化作用をもたない。対象と連関するがゆえにそれらが一致することと、たまたまそれらが一致することとは異なるのである。