Dear Prudence

哲学専修B4 間違いがあればご指摘いただけると幸いです。

久保元彦「形式としての空間――「超越論的感性論」第二節、第一および第二論証の検討――」

 

  • 久保元彦「形式としての空間――「超越論的感性論」第二節、第一および第二論証の検討――」同『カント研究』創文社、1987年、5-69頁。

標記の論文の要約。〔〕内と下線は全て当記事筆者。論文中で久保はKrVの当該箇所の訳文を一部しか与えていないが、ここでは熊野訳を参考に、久保の解釈に親和的であるように適宜書き換えて、訳文を付した。また、原文は一続きだが日本語としては句点を打つ方が適切だと思われる箇所はコンマ(,)で示した。

1 「空間概念の形而上学的究明」の第一・第二論証は形式としての空間(≠純粋直観)を論じている

感性論において直観の形式としての時空と純粋直観としての時空とが区別して解釈されることは殆ど無かった。しかしこれらは現象の形式そのものを考察する――これはKrVの中心的企てである――ための観点の相違に淵源して区別される。直観の形式が質料との緊密な関係において、その本来的な姿において考察される時、時空は直観の形式と呼ばれ、直観の形式が質料から分離して、その非本来的な姿において考察される時、時空は純粋直観と呼ばれる。(∵感性論§1第4段落の解釈)

感性論§2に含まれる四つの論証のうち、第一・第二論証は直観の形式としての空間を、第三・第四論証は純粋直観としての空間を問題にしている。ファイヒンガーらの解釈によれば、第一・第二論証は空間の形式性ではなくそのアプリオリテートを証明しようとしている。曰く、空間はア・プリオリであり(第一・第二論証)、それ自身純粋直観である(第三・第四論証)。この解釈を採る場合、空間が直観の形式であることは第三・第四論証によって証明されているとせざるをえない。これは直観の形式と純粋直観の同一視・混同である。また、空間をいわば巨大な容器と見做す解釈〔以下「箱説」〕もこの解釈と少なくとも相即不離だろう(cf. 当論文第5節)

2 カントが現象の形式の定義を改訂した理由も第一論証に存する

現象の形式の定義にはA版とB版で相違がある。

現象において感覚に対応するものを、私は現象の質料と呼ぶ。一方現象における多様なものが何らかの関係において秩序づけられた状態で直観されるようにするもの〔現象の多様を秩序づけるもの〕を、私は現象の形式と呼ぶことにしたい。(A20)

現象において感覚に対応するものを、私は現象の質料と呼ぶ。一方現象における多様なものが何らかの関係において秩序づけられうるようにするもの〔現象の多様を秩序づけられ得しめるもの〕を、私は現象の形式と呼ぶことにしたい。(B34)

変更には二つの理由がある。第一に、定義と第一論証の対応――現象の形式に関する一般的定義が第一論証では空間に適用されているということ――を明確化するためである*1。問題の第一論証はこうである。(件の対応箇所に下線。)

空間は外的経験から抽出された経験的概念ではない。というのも、或る感覚が私の外部にある何か〔外的経験の対象〕と(すなわち、空間内で私が位置しているのとは別の空間の場所にある或るものと)関係づけられるためには、それゆえまた私が感覚相互を互いに外的に、しかも併存しているもの〔外的経験の対象〕として――かくしてまた、単に異なっているばかりでなく、異なった場所にあるものとして――表象しうるためには、空間の表象が既に根底に存していなければならないからである。従って空間の表象は、経験を通じて外的現象の諸関係から借りてこられたものではありえない,そうではなくてこの外的経験がそれ自身、ただ空間の表象によってのみ初めて(allererst)可能となるのである。(A23=B38)

さて、定義と第一論証との対応を明確化するための変更であれば、定義と第一論証のどちらを変更してもよかったはずだが、定義の方を改めたのはなぜか。その理由(第二の理由)は第一論証の読解を通じてもたらされる。第一論証でカントはわざわざ感覚と外的経験の対象との関係づけに訴えて、質料としての感覚と形式としての空間との関係を性格づけている。感性的な質料と形式のみがここでの問題だとすれば、わざわざ悟性との共働による経験の対象を持ち出す眼目は何か。それは、感覚が経験の対象と同レヴェルの実在性を有するというありうべき誤解によって、(形式としての空間と対置される)質料としての感覚の実在性が高く見積もられることを排除することである*2。件の誤解排除は、「感覚…を…〔外的経験の対象〕…として表象する」ではなく「感覚…を…〔外的経験の対象〕…として表象しうる」と書かれている点に読み取れる。第一論証におけるこの誤解排除と定義の書き換えは対応している。すなわち、この誤解排除は、定義に於て「〔現象の多様〔=感覚の対応者〕を秩序づけるもの〕を、私は現象の形式と呼ぶことにしたい」が、「「〔現象の多様〔=感覚の対応者〕を秩序づけられ得しめるもの〕を、私は現象の形式と呼ぶことにしたい」に書き換えられていることとパラレルである。従って、感覚の実在性に関する誤解の排除が、定義改訂の第二の理由である。

3 第一論証における、形式としての空間の外部性の二義性

第一論証の前半部を再び引用しておく。

空間は外的経験から抽出された経験的概念ではない。というのも、或る感覚が私の外部(außer mich)にある何か〔外的経験の対象〕と(すなわち、空間内で私が位置しているのとは別の空間の場所にある或るものと)関係づけられるためには、それゆえまた私が感覚相互を互いに外的に(außereinander)、しかも併存しているもの〔外的経験の対象〕として――かくしてまた、単に異なっているばかりでなく、異なった場所にあるものとして――表象しうるためには、空間の表象が既に根底に存していなければならないからである。(A23=B38)

我々は本節で「私の外部」と「互いの外部」の区別に内実を与える*3

形式としての空間とは第一義的に「私の外部」であり、それは「私がその内に位置している空間の場所とは異なる或る場所」として性格づけられる。さて、ここでの「私」とは何か。純然たる思惟だとすれば、その外部を空間として特定する手立てはないし、経験の客観的対象の一つだとすれば「私の外部」が先取的に前提されていることになるから、これらのいずれでもない。[次のような意味でその外部が解されるところの「私」なのである。]「私の外部」に関する理解内容は、原初的には「私の前方」ないし「奥行き」なのであって、その等根源的次元ないし構成要素として遠近や方位が存するのである(これらなしに「奥行き」は「奥行き」たりえない)。

また、形式としての空間とは第二義的に「互いの外部」であり、それらが直ちに「異なる場所」として性格づけられることからして「私の外部」の理解を前提している*4。互いの外部にあるということは当該の場所が、私の前方に拓かれている奥行きの中の、それぞれ異なる方向と異なる近さに認められるということである。

4 第二論証第一・第三文の典型的解釈への反論と、解釈の提示

第二論証はこうである。

空間とは、それが全ての外的直観の根底に存するところのア・プリオリな必然的表象である。人は空間が存在しないことについては決して表象しえない,空間に如何なる対象も見出されないことは非常に容易く(ganz wohl)考えうるにも関わらず(ob gleich)。したがって空間は現象を可能とする条件と見なされ、現象に依存する規定とは見なされないのであって、だから(und)空間は、それが外的経験の根底に必然的に存するところのア・プリオリな表象なのである。(A24=B39)

以下の議論の前提であるが、空間はア・プリオリな表象であるという考えと、空間は必然的に外的現象の根底に存しているという考えは区別され、この区別は、二種類の必然性の区別に対応する:空間表象を取り除いて考えることはできないという意味での必然性(絶対的必然性)*5とそれが外的現象の可能性の条件であるという意味での必然性(相対的必然性)である〔以下、アプリオリテートと形式性とはそれぞれ絶対的必然性と相対的必然性とに置き換えて読まれてよい〕。

第二論証に向けられる[誤った]典型的な解釈・批判はこうである:

そこに「如何なる対象も見出されないことは非常に容易く(ganz wohl)考えうる」がそれ自体「存在しないことについては決して表象しえない」空間とは、形式としての空間ではない。というのも、外的現象との関係なしには空間の形式性は問題たりえないからである(∵当論文第1節)。問題となっているのはそのアプリオリテートである。形式としての空間は考察から除外できる一方ア・プリオリな空間はできないというこのことは、アプリオリテートが形式性に原理的に先立つ〔より基礎的である〕ことを示しているのであって、第二論証の証明目標も空間表象のアプリオリテートにある。さて、我々は空間の相対的必然性については今証明された絶対的必然性から推論されうるものと解すべきだが、この点に関してカントは何も明らかにしていない。そればかりか、第一・第三文における「外的直観の根底」や「現象を可能にする条件」という語句に見えるように、双方の必然性を無造作に並置している。

しかし、この解釈の要である、アプリオリテートの形式性に対する原理的先行性は、超越論的批判の根本精神に反している。根本精神とはこうである:経験一般の純粋形式は経験を可能にする根源的条件として経験に先立っている。それゆえ純粋形式は非経験的であり、つまりア・プリオリである。――つまり寧ろ形式性がアプリオリテートに先行しそれの根拠を成すのである。

5 第二論証第二文の箱説的解釈への反論と、解釈の提示。まとめ

空間の箱説を第二文に読み込む論者に対して我々は複数――前半部分について3つ、後半部分について1つ――の反論を与える。

前半部分について3つ。第一に、第二文の全体は「人は空間が存在しないことについては決して表象しえない,空間に如何なる対象も見出されないことは非常に容易く(ganz wohl)考えうるにも関わらず(ob gleich)。」であるが、たとえ「空間に如何なる対象も見出されないこと」を取り上げる後半部分に箱説を読み込むにせよ、「空間が存在しないこと」を取り上げる前半部分に予めそれを読み込む文脈上の強制力はない。第二に、超越論的批判には、経験一般の形式自体についてはその存在・非存在を問題とすることを差し控えるという自己制限があり、空間表象それ自体の[絶対的]必然性を問題とすることはその自己制限に背馳する。第三に、箱説を支持できないのは「時間概念の形而上学的解明」との対応を考慮すると一層明らかである。

後半部分について1つ。「空間に如何なる対象も見出されないこと」に際して一つの自立的な空虚としての空間を想定しているとするならば、この空間の現存在を現存在一般の意味と基準に従わせながら、現存在一般を捨象する際には、空間をその適用除外にしていることになる。このような恣意によって適用除外となったものの現存在は無意味である。

第二文の趣旨は、私の前方の奥行きの中に如何なる対象も見出されない場合にも、形式としての空間は事物に外的経験の対象としての資格を付与するための地平を形成している(cf. 当論文第3節)、ということである。その際空間と外的経験の対象(形式と質料)とを同一次元において相対化することは誤りである(↔カッシーラー)。そしてまた、カントは時空と外的経験との対象との関係の非相対性から、質料に対する形相の先行を主張しているのであって、その逆ではないがゆえに、形式としての空間はカントの思索において中心的役割を果たしている。

以上全てを踏まえれば第一・第二論証の趣旨はこうである。感覚の実在性を不当にも高く見積もっているという誤解を防ぎつつ空間の形式性を導き(第一論証)、純粋形式と外的経験の対象の〔非対称性のみならぬ〕非相対性を述べ(第二論証第二文)、れらの帰結として形式としての空間のアプリオリテートが提示される(第三文)。

*1:定義と第一論証とを紐づけるのは当論文第1節ありきの、解釈のための解釈と思われるかもしれないが、この紐づけは後述の第二の理由によって補強される。

*2:感覚の可能性の条件として空間の形式性を導くのでは、そこでの感覚が本当に対象に関係づけられているのかが不明になってしまうので、あくまで感覚を対象に関係づけられるところのそれに絞った上で、そのような感覚の可能性の条件として空間の形式性を導いた、ということだろう。

*3:本節における久保の現象学的な読み込みは突飛に思われるかもしれないが、少なくとも第二論証第二文の解釈に効いてくる限りでは(cf. 当論文第5節)見過ごせない。

*4:「其処」と「其処」の区別は「此処」と「其処」の区別を前提している、という認識論的論点。

*5:カントによれば数学的真理も空間表象を必要とする。また、内的経験も外的経験に、それゆえ空間表象にもとづく(観念論論駁)。